定期運行を終了した寝台特急「あけぼの」は、秋田・青森の人々に「出世列車」と呼ばれたという。「出世魚」といえばブリやスズキが有名で、成長にともなって名前が変わる。関東だと、ブリは「ワカシ」「イナダ」「ワラサ」「ブリ」の順、スズキは「セイゴ」「フッコ」「スズキ」の順とされ、他の地方では別の名前で呼ばれる場合もあるそうだ。しかし、「あけぼの」は誕生から運行終了まで、名前は変わらなかった。

「出世列車」と呼ばれた寝台特急「あけぼの」(写真はイメージ)

列車の出世といえば、快速列車を急行列車に格上げしたり、急行列車を特急列車に格上げしたり……、という事例もある。ところが、「あけぼの」に関しては1970年に誕生してから、定期運行を終了するまで「寝台特急」だった。在来線列車としては最上位の列車だったといえる。しいて言えば、臨時の特急から定期列車への格上げが「出世」で、今回の臨時列車化は「降格」とも言えそう。でも、「あけぼの」が「出世列車」と呼ばれた理由は違う。

出世したお客さんを乗せるから「出世列車」だった

出世列車「あけぼの」には"先輩"がいる。1954年から運行され、1993年に定期運行を終えた夜行急行「津軽」だ。1970年に「あけぼの」が走り始めるまで、出世列車といえば「津軽」を指していた。「津軽」が「出世列車」と呼ばれた理由は、列車が出世したからではない。出世したお客さんを乗せた列車だったから。

1950年代、日本では朝鮮戦争をきっかけとして高度経済成長が始まった。1955年からは経済成長率が10%を超えるほどだった。ただし、その恩恵は工業とその周辺の都市部に偏り、農村部の影響は小さかった。都市では人手不足となる一方、農村部は豊かにならず、農閑期に仕事がない。そこで、稲刈り後から田植えの時期まで、東北地方に住む男性は東京へ出稼ぎに出た。また、農家の子は東京に就職先を求めた。東京では若い労働力に期待し、「金の卵」と呼んで歓迎したという。

仕事のない農村から東京へ向かうから、移動手段は普通列車だった。当時は夜行の普通列車も走っていたし、集団就職のために臨時団体列車が運行されたという。しかし、東京で良い仕事に恵まれ、成功すれば、帰りの列車は奮発して急行「津軽」の二等車や寝台車で帰った。秋田駅などで家族が迎えたとき、急行「津軽」から降りてくれば出世した証拠。都会からの珍しい品物などを両手に抱えて近所に配って、家族も鼻が高かったそうだ。これが「出世列車」の本当の意味だった。

1970年に寝台特急「あけぼの」が走り始めると、急行「津軽」より格上の「あけぼの」が出世列車となった。もっとも、急行「津軽」も走り続けていたし、こちらの出世列車としての地位がすぐに下がるわけでもなかった。「あけぼの」は「大出世列車」、「津軽」は「そこそこの出世列車」と認識されただろう。一方、普通列車でなんとか里帰りした人は、ちょっと肩身が狭かったかもしれない。

東北本線にも夜行急行や寝台特急は走っていた。しかし、「出世列車」といえば奥羽本線経由の「津軽」「あけぼの」を指すようだ。東北本線の列車は北海道からの乗客も多く、東北の人々にとって身近な列車は「津軽」「あけぼの」のほうだったかもしれない。

現在では、「出世列車」という言葉は聞かれなくなった。航空機が身近な存在となり、秋田方面へは秋田新幹線「こまち」も走る。「こまち」のグリーン車で帰省すれば、故郷に錦を飾ることになるだろうか? いや、高級外車で故郷に乗り付けたほうが自慢できるかも!?

いずれにしても、「出世列車」という言葉を知る世代にとって、「あけぼの」は特別な列車だった。それだけに、定期運行の廃止は寂しいと感じるはずだ。「あけぼの」は今後、臨時列車として多客期に運行されるという。寝台車の老朽化が理由とはいえ、臨時列車としても、少しでも長く走り続けてほしい。