明治時代初期、日本で鉄道建設の機運が高まった。きっかけのひとつはアメリカ使節のペリーが江戸幕府に贈った鉄道模型といわれている。ペリーは1853(嘉永6)年に浦賀に来航し、幕府に開国を求めた。1854年の来航はその回答を得るためで、このときに蒸気機関車の模型を持ってきた。模型と言っても実物の約1/4の大きさで、組み立てに約1週間かかり、完成後は、実物と同じしくみの蒸気機関車が1両の客車を引っ張ったという。

国産初の蒸気機関車は模型だった!?(画像はイメージ)

模型は精巧に作られ、客車に十数人程度の座席も作られたようだ。ただし実物の1/4サイズだから客室には入れない。試乗希望者は客車の屋根にまたがったという。ペリーは蒸気機関車だけでなく、アメリカの技術力を誇示するかのようにライフル銃や通信機、農機具など生活用具も持ち込んだ。これらの情報は幕府関係者に知れ渡り、瓦版などを通じて江戸庶民にも蒸気機関車の存在が知られるようになった。

ペリーが幕府に蒸気機関車模型を贈った1年後の1855年、佐賀藩が蒸気機関車の製造に成功している。驚くべきスピードだけど、これはペリーの機関車を手本とした機関車ではなかった。じつはペリーの模型機関車よりも1年早く、1853年にロシアのプチャーチンが長崎に来航し、ロシアの戦艦の上で佐賀藩の藩士に蒸気機関車の模型を実演していた。佐賀藩藩主の鍋島氏は長崎の警備を担当しており、検分を兼ねてロシア艦に乗艦している。これが日本人が国内で初めて目撃した蒸気機関車といわれる。

ちなみに、日本人で初めて蒸気機関車列車に乗った人物はジョン万次郎。日本に蒸気機関車が持ち込まれるより8年も前の1845年、アメリカ西海岸の路線だったという。

佐賀藩はすでに、蘭学の研究の過程で蒸気機関の実力に注目し、国産蒸気機関の開発を決意していたようだ。「精錬方」という研究機関を設置し、1855年に蒸気機関車の模型の制作に着手し、完成させた。これはペリーの模型よりもっと小さく、軌間12.8cm、機関車の全長39.5cm、幅14cmというミニサイズ。いま各地の鉄道イベントで使われるミニ列車くらいのサイズだった。機関車は銅と真ちゅうで作られ、2気筒のシリンダーを持ち、ギアチェンジ機構も備えていたという。

このように、日本で最初の蒸気機関車は佐賀藩の製造だったとされている。ただし、同時期に福岡藩も蒸気機関車の模型を製造したという。加賀藩や長州藩が外国の蒸気機関車の模型を購入した記録も残っているらしい。いずれにしても、こうした下地があったために、明治維新の後、富国強兵の旗印の下、鉄道建設の機運が高まっていったといえそうだ。