東武鉄道は山手線の西側に東上線、東側に東武スカイツリーラインを軸とした路線網を持つ。かつて別会社だった経緯もあり、両路線は自社の線路ではつながっていない。ところが、大正時代に両路線をつなぐ路線の計画があった。この計画は達成できなかったけれど、その一部区間は「大師線」として、現在も営業中だ。

東武鉄道大師線の終点、大師前駅

東武鉄道のサイトで公開されている「会社の沿革」の「昭和元年~20年」に、「(昭和)06年12月20日 西板線(現大師線)西新井~大師前間1.1km開通」との記述がある。大師線は西新井大師への参詣輸送を目的として、1931(昭和6)年に開業した。伊勢崎線(東武スカイツリーライン)の西新井駅から分岐する1.1kmの短い路線だ。

大師線の開通当時の路線名は「西板線」だった。路線名の「西」は「西新井」から取った。では、「板」はどこかというと、これは「板橋」。東武東上線の上板橋駅だという。西板線は東武鉄道の伊勢崎線と東上線を結ぶ計画だった。

「西板線」の計画路線図

西板線は1922(大正11)年に計画された。伊勢崎線の西新井駅から大師前駅へ、さらに荒川東岸の鹿浜(足立区)、隅田川西岸の神谷(北区)、板橋上宿(板橋区、現在の都営三田線板橋本町駅付近)を経由し、上板橋駅に至る。路線延長は11.6kmだ。予定地の沿線は未開発ながら、住宅地として有望だったという。並行する道路(現在の環状7号線)の計画も進んだ。

東武鉄道はまず、西新井から鹿浜までの用地を取得し、着工した。鹿浜から先は荒川の護岸工事を待つ必要があり、鉄橋の費用捻出も問題だった。そこへ大きな転機が訪れる。着手の翌年、1923(大正12)年9月1日に、関東大震災が発生した。東武鉄道だけではなく、あらゆる企業が復旧を最優先した。そのため、西板線のような新線計画を進める余裕がなくなった。

震災後の混乱の中で、鹿浜から上板橋にかけての未取得用地は急速に宅地化が進んだ。沿線自治体から東武鉄道に対しては、西板線に対する経由地変更の要請が続出。収拾がつかなくなって、大師線部分が開通した翌年(1932年)、東武鉄道は未開通区間の計画を廃止した。

計画が廃止される直前まで、東武鉄道は西板線の準備を着々と進めていたという。その名残が常盤台(板橋区)の住宅地だ。現在の東上線ときわ台駅の北側、西板線と東上線の線路に挟まれた一帯である。ここはもともと、1928年に東武鉄道が西板線と東上線を接続する貨物駅として用地を確保したという。西板線計画が停滞する間、退役軍人がここを借り受け、「板橋飛行場」を設置し、遊覧飛行や航空士訓練などが行われたという。西板線計画が終了した後、東武鉄道はこの土地を住宅地として開発。そのアクセス用の駅として、ときわ台駅(開業当時は武蔵常盤駅)が設置された。

西板線計画は消えてしまったけれど、現在、このルートにほぼ並行する鉄道路線計画がある。赤羽駅を境に、西側は「エイトライナー」、東側は「メトロセブン」と呼ばれている。「エイトライナー」は羽田空港から、「メトロセブン」は葛西臨海公園駅から赤羽に至る。実現すれば山手線と武蔵野線の間を走る環状線となり、経由予定地の自治体が構想中だ。

もし西板線が完成していれば、浅草発寄居行や、池袋発日光行の特急が走っていたかもしれない。「エイトライナー」「メトロセブン」の計画がなかなか進まない様子を見ると、いまからでも西板線計画を復活させてくれたら便利だろうに……、と考えてしまう。