東武野田線でいよいよ新型車両60000系が走り始める。東武鉄道の車両では初めて公衆無線LANを搭載するとのことで、通勤・通学もより楽しくなることだろう。

東武野田線の新型車両60000系

現在の野田線のルートは、埼玉県の大宮駅から千葉県の船橋駅までを結び、東京都心の東側をぐるっと巡る円弧状になっている。ルート上には春日部駅、柏駅、新鎌ヶ谷駅などがあり、それぞれ放射状に延びる鉄道路線と接続する。その便利さから、沿線はベッドタウンとして人気だという。都心に勤める人々が郊外に引っ越していく様子を「ドーナツ化現象」というけれど、野田線はまさにドーナツの輪を走る路線といえるだろう。

ただし、野田線は甘いドーナツよりも、醤油との結び付きのほうが強い。本誌記事「醤油のワンダーランドでトリビア発見! - 醤油づくしのメニューにも舌鼓」でも、野田市にある「キッコーマン もの知りしょうゆ館」に関して、こんな風に紹介されていた。

「東武野田線は醤油を運ぶために作られた」「東武野田線の地下には醤油が流れている」。なにやら本誌連載企画「鉄道トリビア」のような見出しだが、こちらの情報はすべて事実。こんなトリビア情報から、製造方法といった真面目知識まで、身近だけれど意外と知らない醤油について無料で学べるのが千葉県野田市にある「キッコーマン もの知りしょうゆ館」だ。

……というわけで、その記事にも野田線と醤油の関係が紹介されているけれど、こちらは鉄道趣味の視点から、もう少し詳しく紹介しよう。

スイッチバックの柏駅、キッコーマンに囲まれた野田市駅の謎

野田市HPによると、野田の醤油づくりは戦国時代までさかのぼるという。甲斐武田氏に納めるほどの醤油職人、飯田市郎兵衛が、永禄年間に野田でたまり醤油を作り始めた。これをきっかけに醤油づくりが盛んになった。江戸時代になると、大消費地である江戸の発展とともに、醤油の消費も増大。それまでは大阪から海路で運ぶのが主流だったが、野田から江戸川の水運を利用するほうが近くて安いため、江戸の醤油は野田産に取って代わったようだ。

その勢いは明治以降も続き、野田の醤油業者は発展していく。やがて野田醤油醸造組合が結成され、政財界へ力を持った。1917(大正6)年に「野田醤油株式会社」が設立され、これが現在のキッコーマンへとつながる。

明治時代は鉄道建設が盛んになった時期でもある。野田醤油醸造組合は醤油の鉄道輸送を求め、千葉県に路線建設を要請する。そこで千葉県は県営鉄道として国の免許を取り、1911(明治44)年、柏~野田町(現在の野田市)間が開業した。これが東武野田線のルーツだ。安価な軽便鉄道ではなく、1,067mmの軌間で建設されたのは、官営鉄道に貨車を乗り入れさせるためだという。高額な建設費用は、野田醤油醸造組合が千葉県債を引き受けることで賄われたとか。当時の醤油業者の隆盛ぶりがうかがえる。

東武野田線の変遷略図

その後、野田醤油醸造組合は北総鉄道(現在の京成グループの北総鉄道とはまったく別の会社)を設立し、県営鉄道の払下げを受ける。同社は1923(大正12)年、柏~船橋間の船橋線を開業させた。だが野田線の柏駅と船橋線の柏駅は、現在の常磐線を挟んで別々の駅だった。

北総鉄道はさらに、野田町駅の北側、大宮駅を結ぶ路線を計画。社名を総武鉄道に変更した上で、完成した区間を順次開業させ、1930(昭和5)年に全線が開業した。同年には柏駅の統合も行われて、いまの野田線の原型ができ上がった。この総武鉄道は戦時合併により、1944年に東武鉄道と合併した。後に野田線と船橋線は統合され、大宮~船橋間(野田市・柏経由)が野田線となって現在に至る。

平坦な場所にあるスイッチバック駅は、その先にかつて線路があったという事例が多い。しかし野田線の柏駅は違う。柏駅がスイッチバック構造になっている理由は、もともと別だった路線を統合し、ひとつの駅にまとめたからだ。現在も東武野田線は柏駅を境に運転系統が別れており、柏駅をまたいで直通する電車は日に数本程度である。

沿線が東京のベッドタウンとして開発されるにつれて、野田線は貨物輸送から旅客輸送が中心となっていく。ただし、戦後も貨物輸送は続いており、貨物営業が廃止されたのは1985年だった。野田の醤油を輸送するために始まった野田線は、70年以上にわたって醤油を運び続けたわけだ。現在の野田市駅がキッコーマンの工場に囲まれているのも、かつて野田醤油醸造組合の中心だった場所に駅を置いたからだ。駅周辺はキッコーマンの本社・工場として発展し、醸造工場と充填工場が線路を挟んだ場所に分けられた後、野田線の線路の下に醤油を流すパイプラインが設けられ、稼働を始めたという。