「考古学」というと、なんとなく石器時代、青銅器時代、鉄器時代のイメージ。獣の皮を纏った古代人類が思い浮かぶ。そんな考古学の資料の1つに「土器」がある。日本では縄文式土器、弥生式土器でおなじみだ。ところで、東京では鉄道に関する「土器」が出土した場所があるという。今回は鉄道と考古学のお話である。

鉄道に関する「土器」が出土した場所、それは東京都港区東新橋、「汐留」と呼ばれる地域だ。JR東日本の新橋駅から近いこの場所は、日本テレビや電通の本社ビルをはじめとした高層ビルが林立する。この辺り一帯はかつて、国鉄の汐留貨物駅だった。さらに遡ると旧新橋駅だ。明治5年に日本で初めて鉄道が開業した場所である。

復元された旧新橋駅。鉄道歴史展示室となっている

現在は、昭和通りに面して新橋交差点と蓬莱橋交差点の間に、当時の新橋駅を復元した建物がある。ここは鉄道歴史展示室として無料公開されている。この展示物の1つが発掘された「土器」こと「汽車土瓶」だ。鉄道で長距離を移動してきた乗客たちが、途中の駅で駅弁を買い求め、合わせてお茶を購入した。そのお茶を入れた容器が「汽車土瓶」。旅の記念に持ち帰った人もいただろうが、本来は使い捨ての容器だったので、多くの人々が新橋駅で捨てて行った。汐留の再開発で基礎工事を実施したところ、旧新橋駅の遺構と共に、大量の汽車土瓶が発掘されたというわけだ。

こちらは復刻版の汽車土瓶。名古屋市の「リニア・鉄道館」で購入できる

新橋駅から汐留駅へ

1872(明治5)年に開業した新橋駅は、1914(大正3)年までの42年にわたって、東京の玄関口として君臨したという。しかし、東海道本線が全通し、中央本線や東北方面の鉄道が開業すると、これらの路線を統合した新しい中央駅として、皇居のそばに「東京駅」が開業した。そこで旧新橋駅の旅客営業は廃止となったが、広大な敷地と鉄道設備を活かして貨物専用駅として再出発した。この時に汐留駅と改称、新橋駅の名は当時の電車専用駅だった烏森駅に譲り、新しい新橋駅となった。

鉄道貨物輸送の増大と共に汐留駅は発展。この時まだ、旧新橋駅舎は残っていたという。しかし、1923(大正12)年に起きた関東大震災で駅舎は焼けてしまい、鉄筋コンクリートの駅舎となった。この駅舎は貨物駅として設計されたため使い勝手がよかったようで、汐留貨物駅の価値を高めたと思われる。さらに1935(昭和10)年には、汐留貨物駅の輸送力を活用するため、中央卸売市場(築地市場)が作られた。

その後は自動車の発展によって鉄道貨物は減少。鉄道貨物はトラックと親和性の高いコンテナ輸送へと転換していく。1973(昭和48)年に大井埠頭にコンテナ用の東京貨物ターミナルが完成すると、汐留駅の貨物・荷物の扱いは減り続け、1986(昭和61)年に廃止された。広大な跡地は、国鉄の累積債務を返済するため民間に売却された。こうして現在の汐留オフィス街が作られた。このとき、鉄道発祥の地である旧新橋駅の遺構が発掘されたため、これを記念して駅舎が復元されている。

物言わぬ汽車土瓶が語る「鉄道の旅」

汽車土瓶に話を戻すと、使い捨てのお茶容器として全国の焼き物産地で作られていたようだ。栃木県の益子焼、愛知県の瀬戸焼、滋賀県の信楽焼、岐阜県の美濃焼、佐賀県の白石焼など。汽車土瓶は昭和40年代に全盛期を迎え、駅名を焼きこんだ物も多かった。

鉄道歴史展示室には、そんな駅名入りの汽車土瓶が展示されている。特に沼津駅の汽車土瓶が多かったようで、これは東海道本線を代表する特急列車「燕」の上り列車が、名古屋 - 沼津間をノンストップで走ったからと言われている。「燕」の乗客たちは名古屋を発車すると沼津駅まで弁当も飲み物も買えず、「沼津まではヌマズクワズ」というダジャレが定番だったらしい。なので沼津駅に到着すると、競うように駅弁とお茶を買い求めたのだろう。汽車土瓶は、そんな当時の旅の様子も発掘してくれたのである。

それにしても、大震災の復興があったとはいえ、鉄道開業の記念すべき地をならして埋めてしまったとはもったいない話だ。明治、大正時代にも考古学があり、古いものを貴重に扱う習慣があっただろう。しかし、新しい建物について、当時の人々はその価値を見いだせなかったのかもしれない。それが約100年も経って発掘されるとはなんとも興味深い。いま、私たちのまわりにある「新しい建物」も、100年後には「発掘」の対象になるかもしれないのだ。