堀高明代表取締役社長とともにスターフライヤーを立ち上げたひとりとして、スターフライヤー創業の歴史をここに記していこうと思う。前回、就航当日(2006年3月)の様子とともに、深夜便の低迷などの苦難に触れた。20億の赤字となった就航初年度、社内外の方々と様々な物議を交わしてきた中で特に記憶に残っているのが、今回お話しする内容である。

2006年秋、九州を地盤とする航空会社としてある提案を受けることとなった

「九州エアライン」の提案

2006年秋、スターフライヤーが利用率低迷との格闘を続けている時に、九州でもうひとつの動きがあった。2004年から産業再生機構の支援を受けていた宮崎県の地域航空会社、スカイネットアジア航空(SNA)の再建に一定のめどが立ったとして、再生機構が保有する40%強の株式を売却し、エグジットすることになったのだ。

再生機構のSNA支援においてはANAが運航支援を行っており、予約システムもANAの「able」に切り替えていたことから、機構エグジット後もANAグループでの運営が行われるとの見方が圧倒的であった。その後の減資、政投銀による資本注入などの経営改善策が示されてはいたがSNAの経営は赤字が続いており、ANA以外が手を挙げることを業界では予測する者はほとんどいなかった。

そんな中で我々に日本を代表する大企業からひとつの打診があった。「九州を地盤とする航空会社が2社あり、両方ともまだまだ成功に至っていない。今後両社が別々に経営を続けるよりも、将来を見据えて経営統合を目指すべきではないか」。当面の資金については準備できるとのことで、後は2社がどのように事業調和を図り、どのように経営効率化やサービス・ネットワークの拡充を図るかなど、今後のビジョンが描けるかによるという提案だった。

これを受けて堀社長と何度も議論を重ねた結果、「両社が将来的に一体として経営する方が、九州にとっても日本の航空業界・利用者にとってもいいのではないか」との結論に至り、スポンサー企業ともども再生機構に出向き、デューディリジェンス資料の分析をしながら、独立系地域航空会社「九州エアライン」結成へのシナリオを書き始めたのだ。

「人のことを気にしている場合なのか」

幻に終わった計画の詳細は省くが、機材統合を進めながら日本各都市と九州、九州域内、そして九州とアジアを結ぶ地域エアラインを目指し、スポンサーとともに日本に新たな航空業界地図を創っていこうという図案はでき上がった。なのだが、やはりこれはすんなりとは進まなかった。

ことがことだけに社内で議論を広げる段階ではなかったが、主要株主にはある程度の了解をいただかないと、後で破談になっては相手に失礼である。だが、地元大株主は概して否定的だった。「まだ自身が自立できていない時に、人のことを気にしている場合なのか」と。しかし、九州全体の活性化という意味での地域貢献度は大きく、各自治体を巻き込んで航空事業を発展させるというシナリオは、粘り強く話していけば理解を得られるはずだと堀社長との意思統一はできていた。

最後に「NO」を提示したのが、筆頭株主の米国機関投資家DCMと、次年度の資金確保に向けて出資交渉中だった国内機関投資家だ。機関投資家としては早期エグジットが必要だから、10年後に向けた九州活性化の長期戦略というものに価値を見いだしていなかった。「これに手を出せば、ANAと本格的に対立することになる。コードシェアもできなくなって、スターフライヤーは持つのか」という議論も出た。

我々としては少しでも目先の収益改善が見えていれば、「資金をつなぎさえすれば将来の発展の絵柄は十二分に実現可能なもの。また、ANAとの協業可能性をつぶすものでもない」と両機関投資家を説得することもできたのだが、結局この時点での筆頭株主の強硬な反対を覆すことはできず、呼びかけてくださった企業に謝りに行かざるを得なかった。断腸の思い、というのを実感した。

今、スカイマークの再建をめぐり「第三極」論が多く話題にのぼる。最近、堀氏とも本掲載の事実確認などで連絡を取る機会があるのだが、「このSNA案件だけは返す返すも残念だった。ひょっとしたら今の業界の絵柄を変えていたかもしれなかったのに」と語り合った。

4号機到着、資金繰りの苦労再び

さて、2007年2月には羽田の次の増枠を見越してリースで調達した4号機が到着となる。この時点で増枠の根拠となる空港運用方式の改善は依然協議中で、実施のめどは立っていなかった。すぐに新基地を展開する体力はないので、しばらくの間は整備、訓練に投入しながら多客時の臨時便として使うしかない。4号機分のパイロットも確保できていたのでこの時期の地上待機は大変に痛く、キャッシュアウトに追い打ちをかけた。

2006年後半から資金調達を再開し、2006年度後半に当面の経営リスクを踏まえてまた次年度以降の不測の事態に備えようと取り組んだ。その結果、大口機関投資家SBIはじめ、2007年2月末に14億円、3月末には地元からのさらなる増資と福岡県からの事業支援補助金10億円をいただくことができ、なんとか少しは落ち着いた気持ちで新年度に向かうこととなった。

ANAとの共同運航もようやく合意に至り、2007年6月1日から開始した。顧客層は地元中心のスターフライヤーと首都圏に強いANAのすみ分けができていたので、当方の旅客数が減ることはなく、自社便の利用率は10ポイント以上好転した。

しかし、このまま4機目の飛行機を寝かせ続けるわけにはいかない。新たに加入した企画担当役員もまじえて激論を交わした結果、国交省が設定した「関空特別枠」に挑戦することとなった。東京からの関空経由の国際線乗り継ぎ需要を増幅させたい行政の思惑に乗ったものだ。これで羽田=関空間を4往復でき、機材効率も稼げる。

黒い飛行機が関空に就航

吉本芸人との音楽コラボも

関西~東京の需要はビジネスが中心であり、大手2社は伊丹に集約する方向は変わらなかった。そのため当局との話はすんなり進むのだが、問題はマーケット=収益性である。福岡しか地盤がなく、首都圏でもこれだけ知名度の低さに苦労しているのに、関西でやっていけるのか、皆が不安な中での決定だった。

9月中旬から運航すべく準備を進めたのだが、ある意味全てにおいて時間も余裕もなく"付け焼き刃"だった。マーケティングにかけられる予算も乏しい中、"テレビ局幹部の学生時代の同級生に頼み、吉本興業の副社長にお会いしてコラボを提案させていただくことにした。

吉本興業やよしもとクリエイティブ・エージェンシーの方々は珍しさもあってか、とても好意的に対応してくださった。その中では、ロンブー田村淳さんのビジュアルバンド「jealkb(ジュアルケービー)」との音楽コラボもあった。

それでも関空路線を収益化するには何もかもが足りなかったが、これ以外にも関空や大阪府の方々とあれこれ悩み、知恵を絞り、支援を得る機会を持てたことは貴重な経験であり、思い出でもある。他方、この路線を自力でやっていくことがいかに難しいかを思い知らされることとなった。

※本文に登場する人物の立場・肩書等は全て当時のもの

筆者プロフィール: 武藤康史

航空ビジネスアドバイザー。大手エアラインから独立してスターフライヤーを創業。30年以上におよぶ航空会社経験をもとに、業界の異端児とも呼ばれる独自の経営感覚で国内外のアビエーション関係のビジネス創造を手がける。「航空業界をより経営目線で知り、理解してもらう」ことを目指し、航空ビジネスのコメンテーターとしても活躍している。