数々の華々しい成功に彩られている宇宙開発だが、その栄光の影には、失敗の歴史が連なっている。多くの人から望まれるもさまざまな事情により実現しなかったもの。あるいはごく少数からしか望まれず、消えるべくして消えたもの……。この連載では、そんな宇宙開発の"影"の歴史を振り返っていく。


パイロット (C) U.S. Navy

パイロットを搭載したスカイレイ戦闘機 (C) U.S. Navy

米国海軍が1958年に開発したロケット「パイロット」。当時の陸軍や海軍の他のロケットと比べるとやや影は薄かったものの、世界初の空中発射型の衛星打ち上げロケットにして、世界最小の衛星打ち上げロケットでもあった。もっとも、打ち上げにすべて失敗し、その栄誉は幻に消えた。

前編では、パイロットの開発の経緯と、その特異なシステムについて紹介した。後編では、パイロットの打ち上げの顛末と、その後継計画「ケイレブ」、そして世界最小のロケットとしての日本の「L-4S」ロケットの比較などについて取り上げる。

爆発、爆発、爆発……

パイロットの開発は比較的順調に進み、1958年7月4日には第1段のみ、つまり4基のHOTROCのうち、1段目にあたる2基のみ実機で、あとはすべて実物大模型の試験機が地上から発射された。しかし点火直後に爆発。おそらく推進薬に亀裂が入っていたためと推測された。

7月18日にも再度試験が行われたものの、このときは電気系統の故障で、発射8秒前に爆発し、空を飛ぶことすらなかった。

この2回のさんざんな結果にもかかわらず、NOTSは続く3回目の試験で、いきなり実機のパイロットを打ち上げることを決定した。これは前述したアーガス作戦に間に合わせる必要があったためで、このときその期限は1カ月もない、8月8日に迫っていた。

7月25日、パイロットを搭載したスカイレイが、カリフォルニア州のイニョカーン空港から離陸した。そして空中で分離されたパイロットは無事にロケットに点火、飛行を開始した。このときの記録では、とくに爆発などは起こらなかったようだが、ロケットを分離したことによる重量バランスの変化でスカイレイが傾いたことや、第2段モーターの点火による大量の煙などが原因で、スカイレイや追跡機に搭乗していた操縦士たちは飛行の様子を確認することができなかった。

その後、ニュージーランドのクライストチャーチにある地上局が、パイロットから出されたと思われる信号を受信した。しかし、受信できたのはこの1回だけで、他の地上局も含め2度と受信できず、本当にパイロットからのものだったのかはわからなかった。そのため、公式にはこの打ち上げは失敗したとされている。

8月12日には、ふたたびパイロットによる衛星打ち上げが試みられた。すでに8月8月は過ぎていたが、アーガス作戦のほうも遅れたため、パイロット計画には若干の余裕が生まれていた。しかしこの2回目の衛星打ち上げは、第1段の点火と同時に爆発。その影響で発射母機のスカイレイはスピンに陥り、あわや墜落という事態になった。

NOTSはさらなる試験の必要を認識し、8月16日と17日に、以前の地上試験と同じく第1段のみの機体を使って、地上から発射する試験が行われた。しかし16日の試験は点火3.2秒後に機体が破壊、17日も点火3秒後に機体が破壊するというさんざんな結果に終わった。

その後、22日、25日、26日、そして28日と、連続して実機による衛星打ち上げが試みられた。このうち22日の打ち上げでは、3号機と同じく操縦士は飛行するパイロットを見失ったものの、ニュージーランドの地上局は2回、衛星からと思われる信号を受信した。しかし、これもまたパイロットからのものと確認できるところまでには至らず、NOTSは最終的に、この信号は他のノイズなどを聞き間違えただけであり、打ち上げは失敗に終わったものと結論付けた。

その後、25日の打ち上げは点火直後に爆発、26日は第1段の点火に失敗してそのまま太平洋に落下。さらに28日の打ち上げでは機体の構造が破壊され点火に失敗するという結果に終わった。

パイロットを搭載したスカイレイ戦闘機 (C) U.S. Navy

発射されたパイロット (C) U.S. Navy

その後のパイロット計画と、ケイレブ計画

通算6回の衛星打ち上げへの挑戦、地上試験も含めると計10機の打ち上げをもって、パイロット計画は中止されることになった。ちなみにアーガス作戦は8月27日と30日、そして9月6日に実施され、7月26日に米陸軍の弾道ミサイル局(ABMA)が打ち上げた人工衛星「エクスプローラー4」によって観測が行われた。

打ち上げがすべて失敗に終わり、アーガス作戦への貢献も陸軍に奪われた形となったパイロットだが、まったくの無駄に終わったというわけではない。たとえば衛星部分に搭載されていた赤外線センサは、米空軍が打ち上げた月探査機(パイオニア0~2)に搭載された。もっともこの探査機はすべて打ち上げに失敗したため、実際に機能したわけではない。その後、改良型のセンサが米海軍の航法衛星の実験機「トランシット」に搭載されたという。

さらにNOTSはパイロットの中止後、その直系の後継計画となる「ケイレブ」を立ち上げた。まず奇妙なつくりをしていた第1、2段は、1つのロケット・モーターを第1段とする標準的な形態に改められ、その上にパイロットの3段目から5段目が搭載された。空中発射母機も、スカイレイに加えて、当時新鋭のF4H「ファントムII」戦闘機が使われることになった。

ケイレブ (C) U.S. Navy

スカイレイに搭載されたケイレブ (C) U.S. Navy

NOTSではケイレブを、有事の際に小型の偵察衛星を迅速に打ち上げるためのシステムとして開発するつもりだったとされるが、この構想は早々に中止された。理由は不明だが、一説には米空軍の圧力があったとされる。ケイレブが開発された1950年代の終わりから60年代のはじめにかけては、米国の人工衛星の打ち上げの主役は米空軍に移りつつあり、そればかりか空軍は衛星打ち上げを独占することを狙っていたため、ケイレブが邪魔になったのだという。

その真偽はともかく、ケイレブが一度も人工衛星の打ち上げに挑戦することはなかったのは事実で、第3段より上の段を積まない2段式の形態で、弾道飛行(サブオービタル)ミッションのみに用いられた。まず1960年7月に第1段のみでの試射が1回行われ成功。同年10月から2段式での打ち上げが始まった。2段式のケイレブは1962年までに4機が打ち上げられ、そのうち1962年7月の最後の1機のみが成功したとされている。

また派生計画として地上発射型のケイレブも開発され、1961年と62年に1機ずつ、計2機が打ち上げられ、成功している。このミッションは衛星攻撃兵器の開発を狙った実験だったとされる。ただし攻撃のための弾頭は搭載されておらず、実際に衛星が破壊されたわけでもない。

結局ケイレブも、この計7機の打ち上げをもって計画は中止されることになった。

ファントムII戦闘機に搭載されたケイレブ (C) U.S. Navy

地上発射型のケイレブ。衛星攻撃兵器の実験に使われた (C) U.S. Navy

幻となった世界最小、そして世界初の空中発射ロケット

パイロットは、明確に意図したわけではないものの、世界最小にして、世界初の空中発射型の衛星打ち上げロケットになるはずだった。

パイロットがはたして人工衛星の打ち上げに成功したのかどうかは、今も意見が分かれている。前述のように、2機目と7機目で、打ち上げ時に爆発などの異常が見られなかったこと、また短時間ながら衛星からとおぼしき信号が受信されたことから、軌道投入自体は成功していたのではと見る向きもある。

しかし、その信号が本当にパイロットからのものなのかは当時も今も確かめられていない。また、仮に予定どおり近地点高度2250km、遠地点高度2400kmの軌道に入っていれば、比較的長い間軌道にとどまり続け、たとえ衛星の機能が失われていても、地上からレーダーなどで衛星の存在は観測できるはずであるが、しかし過去も今も確認されていない。なによりNOTS自身が打ち上げ失敗としていることからも、パイロットによる衛星打ち上げは打ち上げはすべて失敗したと見なすべきであろう。

もし、仮に打ち上げに成功していた場合、パイロットは世界最小のロケットになっていたかどうかも難しい問題である。

パイロットのロケットのみの寸法は、全長4.38m、直径0.76m、質量950kgと、L-4Sロケットよりも小さい。しかし、空中発射を前提として造られたロケットである以上、母機であるスカイレイも含めて1つのロケットと見なすべきかもしれない。その場合、全長こそL-4Sロケットのほうが長いものの、全体ではスカイレイとパイロットのほうが大きくなる。

ただ、ロケット分離時点でのスカイレイの速度はたったの時速740kmしかなく、人工衛星になるのに必要な第一宇宙速度の秒速7.9km(時速2万8440km)に対して3%にも満たない。その点から言えば、スカイレイは第1段というよりも、むしろ発射台と見なすべきかもしれない。

いずれにしても、地上発射ロケットのL-4Sと空中発射ロケットのパイロットとを比較するのは難しく、もしパイロットが成功していた場合には、「世界最小の衛星打ち上げロケットは何か」をめぐって延々と議論が続くことになっていただろう。

一方、もしパイロットが成功していれば、世界初の空中発射型の衛星打ち上げロケットになったのは間違いない。しかしパイロットもケイレブも成功せず、他に後に続くものもなかなか出てこなかった。

空中発射には、飛行機がロケットより雨や風に強く、なおかつ雲より高い高度から発射されるため、地上発射に比べ、打ち上げが天候に左右されにくいという利点がある。またロケットを打ち上げる方位角や、分離したロケット機体の落下位置も比較的自由に選べる。しかし一方で、空中発射母機となる飛行機の維持、整備が必要であり、また飛行機に搭載する関係上、あまり大きなロケットは打ち上げられないなど、欠点もある。

つまり、地上発射を超えるほどの旨味がないということであり、空中発射は長らく日の目を見ることはなく、結局は1990年に運用が始まったオービタル・サイエンシズ(現オービタルATK)の「ペガサス」ロケットが世界初となった。

パイロット、ケイレブが、人工衛星の打ち上げという目標を果たせなかったこと、そしてそれに続くロケットが生まれなかったのは不幸なことだったが、しかし衛星攻撃兵器として実際に使われることなく、また少なくとも直接的に、その悪夢の後を継ぐものも生まれなかったのは幸せなことだった。

世界初の空中発射型の衛星打ち上げロケットとなった「ペガサス」 (C) NASA

参考

NOTSNIK: The Navy's Secret Satellite Program by Andrew J. LePage July 1998
NOTS-EV-1 Pilot / NOTSNIK
Pilot (NOTS-EV-1, NOTSNIK) - Gunter's Space Page
Aerospaceweb.org | Ask Us - NOTSNIK, Project Pilot & Project Caleb
Caleb (NOTS-EV- 2) - Gunter's Space Page