千津が浩史のことを意識したのは、浩史がさっと店の紙ナプキンにメモを書いてくれたときだった。

千津は広告会社の仕事をしていて、ちょうど海外から来る撮影チームの接待のために、和食のおいしい大きめの個室のある店を探していた。それを思い出し、ふと飲み会の場で聞いてみたところ、浩史がある店の名を挙げたのだった。

「ちょっと待って、メモする。どういう字を書くの?」と訊くと、浩史は口で説明するよりこのほうが早い、と言わんばかりに、黙ってボールペンを取り出し、店名と最寄り駅を書いた。

浩史の書く文字を見るのは、それが初めてだった。意外と几帳面な字を書くのだな、と思った。肉筆、という言葉が頭に浮かんだ。いまどき手書きの文字を目にする機会はなかなかない。まるで素肌を見たかのように、生々しく感じた。

思えば、それが始まりの合図だった。千津は「店を教えてくれたお礼に」と浩史を食事に誘い、だんだんと二人の距離は縮まっていった。

お互いに忙しく、なかなか会う時間は取れなかったが、毎日のようにメールで会話をした。好きな音楽の話、観た映画の話、今日あったこと、感じたこと。話せば話すほど、浩史は理想的な相手だと思えてきた。千津は付き合う相手に特別な条件を求めていたわけではなかったし、年収や学歴のことなど考えたこともなく、はっきりした見た目の好みもなかったが、唯一、気持ちをわかちあえる相手を求めていたのだと、浩史に出会ってから思った。

三十歳を過ぎてからやっと一人前にできるようになった仕事が楽しくて、結婚を焦る気持ちはなかったけれど、心をわかちあえる相手が欲しいといつも思っていた。

寂しさを埋めたくて誰かと関係を持ったり、自分に気のある相手と付き合おうとしたこともあった。じゃれ合うような楽しさはあったけれど、寂しさはただ、千津の背後に真っ暗に広がっていて、相手はそこになんの介入もできないのだった。

私の求めているものはこういうものではないのだ、と感じたとき、千津は、もう本気で好きになれる人としか恋愛はしない、と決めた。そういう人が現われなければ、このままでもいい、と寂しさを抱きしめながら思った。いちいち相手を傷つけたり、気持ちを読むのにも疲れてしまっていた。誰も現われないのなら、誰かと適当に遊んだりしてごまかしながら生きていけばいい。

半ば諦めながらそう思っていたときに、現われたのが浩史だった。この人しかいない、と千津は心に決めていた。

のめりこんでいるのは自分のほうだ、と気づくまでに時間はかからなかった。浩史の負担にならないよう、そして浩史のことばかり考えているのがばれないよう、メールの返信を遅らせたり、浩史の心に刺さる文面を考えたり、気がつけばそんなことばかりしていた。

浩史がそうしたやりとりや、千津と会う時間を嫌がっていないこと、むしろ楽しんでいることはわかっていたが、それが恋愛感情なのかどうかわからなかった。

「相手の気持ちがわからない」。人がそう言うとき、本当は「わからない」のではなく、「知りたくない」事実がそこにあるのだと、千津は経験から知っていた。

だから、これはきっと、そういうことなのだろう、とどこかで感じていた。感じながら、何かうまく形勢を逆転させる方法はないのか、ふと相手の気持ちを変えることのできるような方法はないのか、いつも考えていたし、試してもみた。

でも、決定的に相手の心を変える方法など、千津には思いつかなかったし、そんなものがあるのかどうかもわからなかった。目の前に心に決めた人がいても、その人のことをどうにもできない。努力でも、勇気でも、何をしてでも乗り越えられない壁があった。恋愛の本当の怖さを、千津は初めて知った。

浩史の断りの言葉は、「女として見れない」とか、「友達だと思ってた」とか、そんな無神経な言葉ではなかった。「好きだとは思ってる。魅力も感じてる。けど、恋愛感情は持ってないし、たぶんこれからも持てない」。

ずたずたに傷つきながらも、そういうきちんとした言葉を使う男を好きになって良かった、と千津は思った。「この人しかいない」という人に、思いを伝えられて良かった、とも思った。

伝えて、相手に断らせる責任を負わせてまで「良かった」と思うなんて、恋愛はなんというエゴイズムなんだろう。その暴力的なエゴイズムを受け入れ合うのが、恋愛なのかもしれない、と、千津は経験したことのない「本物の恋愛」に思いを馳せた。

お互いの家を行き来するような関係にはとうとうなれなかったが、音楽を聴くときに、たまに浩史の字を目にする。「こういうの好きだと思うよ」と言って、焼いてくれたCDRの白い盤面に、マジックで書かれたあの几帳面な文字がある。

何もない関係だった。口づけすら交わさない、人によってはこんなもの、恋愛だとは呼ばないかもしれないくらいの関係。けれど、その盤面の文字を見るたび千津は、自分にとっての大恋愛は確かにあった、という証拠を見るような気持ちになる。浩史の写真も、手をつないだ思い出すらなくても、確かに私たちには、相手のことを思った瞬間があったのだと。

自分のために書かれた文字。それしか残らなかった。でも、それは、千津をこれまでの恋愛とは違う、新しい世界へと連れ出してくれるもののようにも感じられるのだった。

<著者プロフィール>
雨宮まみ
ライター。いわゆる男性向けエロ本の編集を経て、フリーのライターに。著書に「ちょっと普通じゃない曲がりくねった女道」を書いた自伝エッセイ『女子をこじらせて』、対談集『だって、女子だもん!!』(ともにポット出版)がある。恋愛や女であることと素直に向き合えない「女子の自意識」をテーマに『音楽と人』『SPRiNG』『宝島』などで連載中。マイナビニュースでの連載を書籍化した『ずっと独身でいるつもり?』(KKベストセラーズ)を昨年上梓。最新刊は『女の子よ銃を取れ』(平凡社)。

イラスト: 安福望