『3月のライオン』(c)羽海野チカ/白泉社

羽海野チカせんせいが『3月のライオン』で「第18回手塚治虫文化賞」を受賞されました!本当におめでとうございます! 前作『ハチミツとクローバー』では、美大を舞台に若い男女のピュアな片想いや不器用な自分探しなどが賑々しく繰り広げられ、まさに青春! という感じがたまりませんでしたが、そんなハチクロとは打って変わって、『3月のライオン』では家族を亡くした孤独な天才少年棋士が主人公。

人生の重みを感じさせるシーンもばんばん出てきつつ、彼が周囲の人びとと関わり成長する様子を見守りながら、ユニークな棋士たちが跳梁跋扈する将棋界や、熱かったり切なかったりする対局の数々を楽しめてしまうという、何ともぜいたくな物語となっています。

生きるために「選ばされる」ことは不幸?

本作の主人公である「桐山零」くんは、17歳のプロ棋士。幼い頃に事故で家族を失い、ひとりだけ生き残った男の子です。彼が将棋と出会ったのは、亡くなった父が将棋好きだったから。「将棋は苦手だったけれど 忙しい父と一緒に過ごせる大事な時間だから 一生懸命がんばってた」という一節からもわかるように、彼ははじめから天才棋士だったわけではありません。事故のあと、彼を引き取ったのが、亡父と付き合いのあった棋士「幸田」だったことで、彼の人生は大きく変わってゆきます。楽しみのためではなく、生きていくために職業として将棋を選択する必要に迫られた零くんは、将棋の上達と一日もはやい自立に向け、脇目もふらずに将棋を指す日々へと突入。もう「苦手」とか言ってられません……こうして桐山零という若き仕事人間が誕生します。

零くんは人生の選択について悩んでいるヒマがありませんでした。施設に行くか、幸田家に行くかの二択を目の前に突きつけられ、後者を選ぶしかなかったし、幸田家で生きてゆくのであれば、将棋で強くなるしかなかったのです。もしあの事故がなければ、小中高と時間をかけて将来の夢を育んでいけたのかもしれませんが、彼はそういう「ふつうの人生」とは別のルートに入ってしまった。

しかし、ここまで過酷じゃないにしても、わたしたちもまた、人生の中で何かを強制的に「選ばされる」局面というのはあるし、その選択について吟味する時間を与えられないこともあるのではないでしょうか。特にサラリーマンの方なんかは、思いも寄らない部署に異動とか、まだまだ先だと思っていた昇進がいきなり決まるといった経験があるのでは。どちらも「生きるための選択」である、という意味では、零くんの生き方から学ぶことがありそうですよね。

「悩んだときはより苦しい道をゆけ」は本当

岡本太郎の名言に「悩んだときはより苦しい道をゆけ」というのがありますが、零くんもまた常に「より苦しい道」を選んでいます。すぐれた天才は「より苦しい道」を選ぶ、とも言えますが、「より苦しい道」を選ぶことで凡人もまた天才に近づけるとも言えそうです。まだ未成年の零くんが、幸田の家を出て自活しながらプロ棋士として研鑽も積まねばならないというのは、決してラクなことではありません。しかし、より苦しい道を選んだことで、彼はかけがえのない仲間と出会っていきます。「あかり」さんをはじめとする川本家の人びとは、彼を家族の一員のように扱いますし、彼をとりまくプロ棋士たちの多くも、対局が終わればとっても仲良しです。そして何よりも、彼らの零くんに対する優しさが「同情」ではなく、懸命に働き、生きようとする人間に対する「敬意」からきているところがとても美しい!

年長であるとか、金や権力を持っているとか、そういう「条件」に対して払われる敬意は非常にもろいものですが、自分の生き方、働き方そのものに対して払われた敬意は頑健で、めったなことでは壊れません。零くんは高校生にして、その敬意を手にしているのだと思うと、ラクな道ばかり選んで生きてきた自分のダメさに凹みます……嗚呼。

永遠に続く嵐はない

より苦しい道を選ぶ勇気が欲しい、そんな風に思ったときは、タイトルの由来をどうか思い出してください。『3月のライオン』には「March comes in like a lion」という英語のタイトルが付されていて、これは「March comes in like a lion and goes like alamb」=「3月はライオンのようにやってきて、小羊のように去る」……つまり、荒々しいお天気ではじまり、やがておだやかになる3月の季候を表現しています。このタイトルと、零くんの生きざまと重ねたとき、「より苦しい道」を選ぶことの意味が分かるし、苦しい道の先にあるあたたかな光が見えてくる。

3月がもうすぐ終わろうとしている今、気候はまさにライオンから小羊へと移り変わっています。しかし、新年度を迎えるみなさん、とりわけ新社会人にとっては、これからがライオンの季節かもしれませんね。これまでとは全く違う環境に身を置くことで、つらいことや理不尽なことがそれこそ嵐のようにやってくると思いますが、それって永遠に続くものではないかも。働く自分をもっと好きになれるように、そして、もっと好きになってもらえるように……そんなことを考えながら読める『3月のライオン』は、将棋マンガにして仕事人間のバイブルでもあるように思えてなりません。


<著者プロフィール>
トミヤマユキコ
パンケーキは肉だと信じて疑わないライター&研究者。早稲田大学非常勤講師。少女マンガ研究やZINE作成など、サブカルチャー関連の講義を担当しています。リトルモアから『パンケーキ・ノート』発売中。「週刊朝日」「すばる」の書評欄や「図書新聞」の連載「サブカル 女子図鑑」などで執筆中。