怪盗現る!

「金の鯱が黒ずんで見える…」。最初に異変に気付いたのは、名古屋市建築局の技師だった。1937(昭和12)年1月、名古屋城のシンボルである金の鯱(しゃちほこ)の鱗が盗まれる事件が起こった。盗まれたのは110枚ある雄の鯱のうちの58枚で、何者かが闇夜にまぎれて天守閣に登り、剥ぎ取っていったのだ。

人々はこの事件を「昭和の柿木金助だ!」と騒ぎ立てた。江戸時代、柿木金助という怪盗が、巨大な凧に乗って名古屋城の天守閣に上がり、金の鯱の鱗3枚を盗んだという話が伝えられていて、「傾城黄金鯱」という歌舞伎の演目にもなっていたのだ。柿木金助は実在の人物だが、「凧に乗って…」という部分は作り話で、実際には城内に忍び込んで五層目の櫓まで登り、そこから外に出て鱗を盗んだのだという(「柿木金助傳」・柳沢武運三編)。

一方、「昭和の柿木金助」は、調査のために組まれていた足場を登っての犯行で、管理態勢の不備を指摘された名古屋市長が辞任を求められる事態ともなった。

名古屋城の金の鯱は、寄木造の芯の表面に金の板を打ち付けたもので、当時に流通していた「慶長大判」で1940枚、純金換算で215.3kgもの金が使われていた。「天下様でもかなわぬものは 金の鯱 あまざらし」と、歌にも読まれたように、屋外に置かれているものとしては、世界最大の金だったのだ。

富の象徴であり、誰もが手にしたいと考える金。遥かに見上げる天守閣の上とはいえ、その輝きが目に入れば、出来心を抑えきれなくなる人が現れても不思議はないだろう。

金の鯱は尾張藩の「金庫」だった!

鯱は胴体が魚で、頭部が竜や獅子、鬼という想像上の生き物で、口から大量の水を噴出すことから、「火災除け」として厨子などを飾っていたが、天守閣に載せたのは、織田信長が建てた「安土城」が最初であるとされる。鯱を金にしたのはいかにも信長らしいが、権力を誇示するために、大坂城や江戸城など他の城でも載せられるようになってゆく。

名古屋城の金の鯱(しゃちほこ)

これらの中でも、名古屋城の金の鯱はとりわけ豪華で、尾張藩の威光を示すものであったが、同時に藩の「金庫」の役割を担うものでもあった。尾張藩は財政が悪化すると、金の鯱の鱗を作り直して純度を下げる改鋳を行なって、資金を捻出していた。

最初の改鋳は1726(享保11)年で、天守閣の修理費を捻出するのが目的だったという。尾張藩の財政はその後も悪化したため、1827(文政10)年と1846(弘化3年)にも改鋳を実施する。減らした金の代わりに銀を混ぜたことから純度が下がり、金の鯱の光沢が鈍くなる事態に陥ってしまう。これを隠すために、尾張藩は「鳥が巣を作らないように…」などの理由をでっち上げて、金の鯱を金網で覆い見えにくくする。金の鯱は誰もが見ることができる「金庫」であり、尾張藩はその中身が減っていることを懸命に誤魔化そうとしたのであった。

地方巡業と海外公演、そして帰郷

明治維新の廃藩置県で尾張藩は消滅し、名古屋城も廃城となり取り壊されることが決定する。明治新政府への帰順の意を示すために、金の鯱は宮内庁に献納されることになり、1871(明治4)年に天守閣から降ろされて東京へ運ばれる。

ここから金の鯱の「旅」が始まった。金の鯱は翌年の5月、東京の湯島聖堂で開かれていた「第一回勧業博覧会」に出品され、再び人々の前に姿を現す。眩い姿を間近に見た人々は驚嘆の声を上げ、その様子は多くの錦絵にも描かれたが、博覧会終了後に雄と雌が引き離されてしまう。

雄の金の鯱は、石川や大分、愛媛に名古屋と、各地で開かれた博覧会を回る「地方巡業」に出る。一方の雌の金の鯱は、オーストリアのウィーンで開催された万国博覧会に出品される。「海外公演」に出た雌の鯱は、"Remarkable sea monster of grotesque form"と、 欧米人を驚かせ、「日本趣味」(ジャポニスム)のきっかけを作ることとなったのだ。

金の鯱が名古屋城に「帰郷」したのは、取り外されてから7年後の1878(明治12)年のこと。取り壊される予定だった名古屋城の保存が決まり、名古屋市民が宮内庁に返還を懇願したのだった。

名古屋城の天守閣で、再び輝き始めた金の鯱だったが、1945(昭和20)年5月14日の空襲で名古屋城が炎上し、無残にも溶け落ちてしまう。シンボルを失い落胆した名古屋の人々だったが、戦後まもなく天守閣の再建を目指す活動が始まる。1959(昭和34)年10月に名古屋城は再建され、天守閣には大阪造幣局によって作り直された2代目の金の鯱が、往時の姿そのままに輝いたのだった。  

「昭和の柿木金助」は…

金の鯱から鱗を盗んだ犯人は、犯行から20日余り後、盗んだ金の鯱の鱗を鋳つぶして、売却しようとしたところを逮捕された。「金鯱の鱗を剥ぐ! 全日本衝動の真犯人 大阪で逮捕」、「国宝名城に昭和の柿木金助 金鯱怪盗は独りで命がけの空中大仕事」などと、新聞各紙は大見出しで伝えたのだった。

金の鯱がもし金で作られていなければ、ここまで注目され、人々に愛されることはなかったかもしれない。2代目の金の鯱は2005年の愛知万国博覧会にも出展されるなど、活躍を続けている。名古屋万博名古屋城の天守閣に今も輝くその姿は、名古屋の人々の誇りであり、かけがえのない宝物なのである。

<著者プロフィール>
玉手 義朗
1958年生まれ。外資系金融機関での外為ディーラーを経て、現在はテレビ局勤務。著書に『円相場の内幕』(集英社)、『経済入門』(ダイヤモンド社)がある。