2016年のNHK大河ドラマは真田一族の激動をテーマにした『真田丸』。その真田一族の"聖地"を巡る企画の第3回では、「九度山」(和歌山県)と幸村(※)最後の戦いである「大坂の陣」の舞台(大阪府)について紹介しよう。

昌幸・幸村の居住地跡「真田庵」の門。門柱や鬼瓦にも六文銭が刻まれている

九度山 - 昌幸・幸村父子の幽閉の地

関ヶ原合戦で西軍に味方し、家康に敵した真田昌幸・幸村の父子は、戦後に九度山の地(和歌山県九度山町)で蟄居の身となった。九度山は、天空の聖地である高野山の麓に位置する山村。昌幸と幸村は家族とともに、貧しくも静かなる暮らしを送ることとなる。

昌幸・幸村の居住地跡には現在、「真田庵(善名称院)」が建つ。建物は江戸時代以降の建築だが、門や屋根瓦などあちこちに六文銭を配し、真田の"聖地"であることをかもし出している。境内には、父子の貴重な書状や暮らしぶりを伝える生活品が展示されている真田宝物館もある。

九度山に蟄居となって11年後、昌幸は上田への帰郷の夢を果たせぬまま、この地で亡くなった。真田庵には昌幸の霊を鎮めるために、真田地主大権現が設けられている。この昌幸の死から3年後、幸村は九度山の地を密かに抜け出し、「大坂城」へと入城した。

真田庵の境内には、真田地主大権現と昌幸の墓がある

押し寄せる徳川軍を撃退した真田丸跡

2016年大河ドラマのタイトルにもなっている「真田丸」とは、大坂城を守る砦のことだ。徳川軍との決戦を前に、幸村は大坂城の弱点とされた南側に真田丸を設置。合戦が始まると、城から飛び出た位置にある真田丸に徳川軍が次々と攻め寄せたが、幸村はこれを撃破して城に近づけさせなかった。

真田丸は冬の陣後に徹底的に破壊されたため、正確な場所や範囲は分かっていないのだが、跡地はやはりファンにとって巡礼地となっている。中でも、真田山公園のそばの「三光神社」は、幸村の銅像が建つファン必見の撮影スポット。銅像の脇には、真田丸と大坂城内を結ぶ抜け道だったという伝説のある洞窟も残る。

「三光神社」の幸村銅像。その脇には抜け道伝説が残る洞窟も残る

また、三光神社の周辺には、幸村とその息子・大助のために供養のために建立された「心眼寺」や、豊臣秀頼の銅像が立つ「玉造稲荷神社」などゆかりの地が多い。心眼寺には"真田幸村出丸跡"の碑も立つ。大坂冬の陣での激戦ぶりを感じながら歩きたい。

真田丸跡地とされる「心眼寺」。幸村400回忌にあたる2014年には幸村の墓も建立された

幸村の最期となった天王寺口の戦い

大坂冬の陣の講和で堀が埋められ、大坂城は裸城となってしまった。続く大坂夏の陣で、幸村ら豊臣諸将は乾坤一擲の野戦に持ち込むこととなった。

決戦の日、四天王寺のそばの「茶臼山」に陣をしいた幸村は、家康の首だけを狙って突撃を敢行した。この天王寺口の戦いで、赤備えの真田隊は何度も徳川本陣に迫り、家康も一度は死を覚悟したという。しかし多勢に無勢、幸村の体力も尽き、ついに討ち取られることとなった。

小高い丘陵だった「茶臼山」。大坂冬の陣では家康の本陣、夏の陣では幸村の陣となった

この幸村終焉の場所となったのが、現在の「安居神社」である。境内には、満身創痍となって幸村が一本松に寄りかかって休んだという逸話を伝える「さなだの松」と、最期をむかえる幸村の銅像がたたずむ。激烈なる幸村の生涯はここに幕を下ろしたのだった。

「安居神社」の幸村銅像と戦死跡の碑。神社で購入できる六文銭のお守りも人気

幸村の物語は大坂夏の陣で幕を下ろしたが、真田家もそこで終わったわけではない。真田家のドラマは幸村からその兄・信之にバトンタッチされ、松代(長野県長野市)の地で紡がれることとなった。最終回の第4回では松代について紹介しよう。

※ドラマでは真田"信繁"の名前が用いられるが、今回は一般に知られている"幸村"を使用

(文・写真/かみゆ歴史編集部 滝沢弘康)

筆者プロフィール : かみゆ歴史編集部

「歴史はエンタテインメント! 」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで、歴史関連の編集制作を行う編集部。ジャンルは戦国、幕末を中心に古今東西を問わず、アート、カルチャー、宗教・神話、観光ガイドなど幅広く手がける。おもな編集制作物に『真田一族巡礼の旅ガイド』(KKベストセラーズ)、『日本の仏像巡礼名鑑』(廣済堂出版)、『日本の山城100名城』『春秋戦国500年の興亡』(どちらも洋泉社)、『戦国武将イラスト名鑑』(学研パブリッシング)、『廃城をゆく』シリーズ(イカロス出版)など
「かみゆ」