「東京12チャンネル」が「テレビ東京」に社名変更した……、失礼! マニアックすぎました(笑)。寺尾聡が唄う『ルビーの指環』が大ヒットし、東京と伊豆を結ぶ特急「踊り子」に使用される185系がデビューした1981(昭和56)年は、大量の戦前形旧型国電が立て続けに引退した年でもあります。3月に宇部・小野田線、7月に大糸線、8月に身延線と、それぞれ旧型国電が最後の輝きを放ち、引退していきました。

筆者が保存していた当時使用の信州ワイド周遊券。学割のはんこが懐かしい

筆者はこの年の7月下旬、「信州ワイド周遊券」を購入し、往路は新宿駅から松本駅へ向かい、数日後に引退を控えた大糸線を撮影、復路は甲府から身延線経由にして、8月に引退する身延線を撮影することにしました。

そして大糸線から身延線への移動で甲府へ向かう途中、中央本線辰野駅から飯田線の伊那松島駅に寄り道。身延線から旧型国電が引退した後、国鉄線上で最後のスカ色戦前形旧型国電となる、飯田線伊那松島機関区所属の"古豪"たちを撮影しました。滞在時間が1時間弱という、慌ただしいスケジュールの中での撮影でした。

当時の「信州ワイド周遊券」は長野県内の国鉄線乗り放題と、非常に使い勝手のいいきっぷでした。1981年頃、この周遊券で旧型国電を追った人も多いのではないでしょうか。

留置中の戦前生まれの"古豪"たち。写真左がクハユニ56004、右奥にいるのがクモハ54133

クモハ54131とクハ68416

写真左はクモハ61005、右は救援車クモエ21009

写真4の右奥に写っているのは、伊那松島機関区の珍車・救援車クモエ21009です。救援車とは、災害、脱線、踏切事故などが起こった際、現場に出動し救援作業をするための車両で、車内には枕木、ジャッキ、クレーンなどの各種資材や機材を積んでいます。緊急時以外の走行は検査入場くらい、という車両です。

当時の救援車は、ほとんどが古くなった車両や廃車になった車両から改造されていました。クモエ21009も、クモハ11235から改造されています。

最も特徴的なのが、大きな扉が設置され、口を開けた妖怪のような奇妙な前面です。通常、救援車は救援作業中に資材や機材を出しやすいよう、側面に大きな扉を設置していました。このクモエ21009では、飯田線中部の狭隘な山岳線区で、線路方向にのみ空間が存在する場所での救援作業を考慮し、前面にも大きな扉が設置されました。

救援車クモエ21009。正面の扉が開いた状態は珍しい。車内ではなにやら作業中

クモエ21009の反対側(写真手前)。前面は改造前の姿を残していた。奥はクハ68412

出区するクモハ50008ほか2連

伊那松島区唯一のオール2ドア編成。クハ47009とクモハ53008

1981年8月、身延線から旧型国電が引退すると、国鉄線上のスカ色戦前形旧型国電は飯田線伊那松島機関区所属の約50両のみに。最後の活躍を続けましたが、新性能化により1983年6月に定期運用が終了、7~8月の「さよなら列車」運転をもって引退しました。

1983年9月以降、旧型国電は可部線の72系(1984年10月引退)、富山港線の72系(1985年3月引退)、鶴見線大川支線のクモハ12(JR化後の1996年3月引退)、小野田線本山支線のクモハ42(JR化後の2003年3月引退)などを残すのみとなりました。

クモハ40が先頭の大糸線上り列車。最後尾はクモハ60022

夜の甲府駅に停車中の身延線列車。クモハユニ44801ほか4連

飯田線を撮影した日の午前中に撮った大糸線のラストカットと、移動後に撮った身延線のファーストカットも紹介します。大糸線、飯田線、身延線、すべて同じ日の撮影です。

「鉄道懐古写真」撮影時期と撮影場所

  撮影時期 撮影場所
写真1 2012年7月7日  
写真2 1981年7月22日 伊那松島機関区
写真3
写真4
写真5
写真6
写真7
写真8
写真9 伊那松島駅付近
写真10 大糸線島高松~梓橋間
写真11 甲府駅
※写真は当時の許可を取って撮影されたものです
松尾かずと
1962年東京都生まれ。
1985年大学卒業後、映像関連の仕事に就き現在に至る。東急目蒲線(現在の目黒線)沿線で生まれ育つ。当時走っていた緑色の旧型電車に興味を持ったのが、鉄道趣味の始まり。その後、旧型つながりで、旧型国電や旧型電機を追う"撮り鉄"に。とくに73形が大好きで、南武線や鶴見線の撮影に足しげく通った