---------------------------------------------------------------------------
初恋、結婚、就職、出産、閉経、死別……。
人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。
そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について
気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。
「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。
誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、
女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。
---------------------------------------------------------------------------

産婦人科で宴会しようか?

この国では未成年者の飲酒は法律で禁止されているのだけれども、私が育ったのは漫画『エスパー魔美』の佐倉家のような家庭だった。つまり、たまに銀座までお出かけして、「メキシム」みたいなちょっといい店で食事をするときなどに、親から子へ酒のグラスが勧められるということが、よくあった。しょっちゅうあった。いや、ごめん、うん、ほとんど日常だった。一応ぐぐって、どうやら時効であるらしきことを確認したので、一応謝ってから、そのことを書く。

親の言い訳バリエーションにはいろいろあって、「西洋圏では子供だって飲んでる」というのがその一つだ。これはさすがに子供にでもわかる嘘だった。「聖書の時代には大人も子供も水の代わりに葡萄酒を飲んでいた」もよく聞いた。こちらは大人になってから、ある識者に「当時の葡萄酒は今よりアルコール度数が低く、水割り葡萄ジュースのようなもので……」と呆れられるまで信じていた。

どうしてそうまで我が子に酒を飲ませたいのだろう。子供心に疑問だった。きっと、お酒を飲むのがあんまり楽しいので、それを自分の子供たちにもおすそ分けしたくてたまらないのだろう、と想像した。うちの両親は食事をしながら酒を飲むのが好きだ。とりたてて美食家でもなければ、高級酒の銘柄に詳しいわけでもないが、おいしいごはんにはおいしいお酒が必須、と考える二人だった。フレンチやイタリアンならワイン、中華なら紹興酒、和食なら日本酒や焼酎、デザートとチーズには食後酒。

「私たちの子ならば、きっと酒好きに育つはずだ」とも言われて育った。安物の赤ワインをどぼどぼ入れて作ったブラウンシチュー、安物の白ワインをどぼどぼ入れて作ったチーズフォンデュ、湯気を嗅いだだけで酔いそうな貝の酒蒸し、果物のコンポートに洋酒たっぷりのサヴァラン、チョコレートボンボン。我が家の食卓に並ぶおいしそうなものは、どれもふんだんに酒が使われていた。「もし体質的に酒を受け付けないなら、盃を渡す前に、料理でそれとわかるはずだ」というのが、また別の言い訳だった。たしかに我々三人姉弟、幼い頃から母の手料理や父の土産を口にして、突然ぶっ倒れたことはない。

命の水の調べ、俗界を抜け出し

我が家では、「できる範囲で、子供も大人と同じものを飲み食いする」ことが奨励された。子供だからといってレストランで甘いジュースを注文するのは許されない。代わりにワインを一口飲むのはよいが、生牡蠣やイカの塩辛など、味の強い酒肴は食べさせてもらえない。アルコール耐性を把握した上で、父母は子供に飲酒を強要するのではなく、ただ、ちょっと積極的に勧めてくるだけだった。法律で禁じられている行為ではあるが、まぁ常識の範囲内ではあったろうと思う。

女子校生活はなかなかに暗黒色だったので、私の日々の支えは「大人になれば、今よりもっとずっといいことが起こる」という魔法の呪文だった。大人になれば、先生の言うことに従わずに済む、団体行動もしなくて済むし、同級生の顔色も窺わなくて済む。「大人と同じように酒が飲めるのは、いいことだ」という両親の教えがそこに重なって、「早く酒が飲めるようになれば、早く大人になれるんじゃないか」そんな気がしていた。

古今東西、こうやって間違ったルートで大人の階段を駆け上がろうとする子供は、少なくないのだと思う。肺癌のリスクが怖くて喫煙にこそ手を出さなかったが、代わりに、中学生くらいからちびちびと父母の晩酌の相手をしていた。どんどん強い酒が飲めるようになって、スモーキーなアイラモルトが好きになり、アブサンやスピリタスも舐めた。さまざまな味の日本酒を飲み比べる愉しみも覚えた。舌が肥え、知識が増えていくのは「早く大人になれたみたいで」嬉しいことだった。

「初めてお酒を飲んだのは、いつですか?」という問いには、答えられない。小さい頃から、毎朝伸びる麻の苗の枝葉を飛び越えるようにして、私のアルコール耐性は鍛え上げられていった。「初めてお酒で失敗したのは、いつですか?」という問いにならば、「20歳」と答える。「いやー、どうも、20歳を過ぎたあたりから、めっきりお酒に弱くなっちゃったんですよねー」と。

酔い潰れて生まれて初めて街路樹の根元に嘔吐したのも、居酒屋の女子便所で便器に頭を突っ込んだまま寝こけているところを救い出されたのも、あるいは、ぶっ倒れた友達の救急車に同乗したのも、どれもだいたい20歳くらいの、痛恨の出来事だった。毎回毎回、もうお酒は懲り懲りだ、と思った。けれど今でも私は細々と飲酒を続けていて、いつの間にか、「20歳の頃」のような失敗はしなくなっている。

安いウォツカを一本飲み切っても

大学に入って初めて「居酒屋」と呼ばれる店へ行き、飲み放題プランで「サワー」や「チューハイ」と呼ばれるものを飲んだ。一口目から気分が悪くなり、こんなもの二度と注文しないぞ、と思った。巨峰サワーのせいじゃない。ただ私が、ほとんどジュースみたいな甘さの、しかし後からしっかり蒸留酒の味が戻ってくるカクテルというのを、家庭で飲みつけなかっただけである。以来、親との晩酌で親しんだ酒を注文するようになった。

年少の女子学生が初手からもっきり酒を啜っていると、あるいは一人しか飲まない紹興酒の小瓶に「ぬる燗で」と指示を飛ばすと、周囲は「おまえ……」と絶句する。続く言葉が「もうちょっと女の子らしい酒にしろよ……」であることくらい、私とて理解していた。理解しているからこそ試しに注文してみたのだが、私はこの手の酒、つまりカルピスサワーや梅酒ソーダやカンパリオレンジと、みずからの女性性との間に、結局あまり連関を見出せなかった。

なんかキッツイ酒ください! と頼む私の傍らで、ビールを一、二杯で泥酔する人たちがいた。私にはそれが興味深かった。泣いたり笑ったり、いきなり怒ったり、割り勘の精算はおろかまっすぐ歩くこともできなくなっている姿。酔った途端に横暴な態度をとりはじめる先輩がいて、「酒の席で真面目な話なんかするな!」と、酒の席だからこそ盛り上がるはずの会話を強引に中断されたりもした。この人にとって、お酒とは不真面目なものなのだな、と不思議な気持ちになった。

九州出身の学友たちにも驚いた。焼酎しか飲まない。私は当初、彼らがお国自慢の冗談として、示し合わせてわざとそうしているのだと思った。でも本当に、焼酎しか飲まない。誰の部屋へ遊びに行っても、買い置きは焼酎。どんな店でも、ボトルで焼酎。ほとんど飲んだことのなかった私は、渡されるまま盃をあけてしたたか酔う。目を回していると「東京者は酒が弱いなぁ」と笑われた。彼らにとって、お酒とはすなわち焼酎なのだな、とこれまた不思議だった。

「井の中の蛙、大海を知らず」ではないけれど、親の厳重な監督下において差しつ差されつ「酒が強い」「酒が好き」と思っていたのとは、まるで違う世界があちこちに広がっていた。それが「20歳の頃」に知ったことだ。

我が学友の間では下級生に一気飲みを強要するような蛮行もなく、極めて穏やかな宴席ばかりで、「まぁ、それぞれに、飲みたい酒を飲みたいだけ飲もうや」という雰囲気があった。それでもうっかり許容量を間違えたり、混ぜてはいけない酒をちゃんぽんで飲んでしまったり、ということは起きる。あるとき、酒に弱い酒好きの仲間が急性アルコール中毒に倒れ、救急車を呼んですぐ近くの病院へ搬送した。私ともう一人が彼女に付き添ったのは、その居酒屋に集まった中で最も頭がはっきりしていたからだ。同じメンツで飲むときは大抵そうで、みんなから会費を徴収したり、終電の時刻を告げたりする延長線上で、店側や救急隊員と折衝した。

いくら飲んでも顔に出ないと言われる私とて、しこたまアルコール摂取した後に変わりはない。急激に酔いが醒めるような出来事が起こると、内臓にも瞬時に負担がかかる。自分が人前で醜態を晒したとき以上に「お酒には、懲り懲りだ」と思った。ムカムカと酒気が胃の腑を盛り上がってきて、「いやいや、まだこれからだ」と言われた気がした。お酒は、20歳になってから、が本番だぞ、と。

点滴につながれた彼女の意識回復を待つ間、薄暗い病室にカーテンを引いて、「私、もう成人したんだな」と思った。今までさんざん教習所の中をブイブイ乗り回して、自信満々で怖いもの知らずだったのが、仮免許を取得してやっと公道へ出た途端に、いきなりとんでもないところで事故る。そんな感じだった。私たち成人の酒は、もう、自分で選んで飲むものだ。親と同じ銘柄の酒を注文したって、意味がまったく違うのだ。

自分で踏んづけ、一回転

どうしてそうまで我が子に酒を飲ませたいのだろう。子供心に疑問だった。親たちはきっと、楽しみを分けてくれるという以上に、「共犯者」を育てているような気分だったのではないか。

老親は、久しぶりに会うたび、酒が弱くなっている。子供の頃、ちょっと積極的に酒を勧められたのと同じだけ、私はいつも、ちょっとだけ積極的に、強い口調で勧告する。「あなたがた、もう若くないんだから、あんまり飲みすぎないほうがいいよ」……ずっと「共犯関係」を築いてきたから、我々子供には、彼らの許容量がよくわかる。そうして互いに見張り合いながら盃を重ねる。

そういえば私は、教習所の仮免許を経て晴れて運転免許も取得したが、一度もマイカーを持たず運転はいっさいしない。人呼んで「ゴールデン・ペーパードライバー」なのだけれど、これも家庭内の「共犯」事情が絡んでいる。「外で好きなだけ飲んで食べて、帰りは子供がスイスイーッと家まで運転してくれるというのが、昔からの夢だったの! だって、あなたたちが小さな頃はいつも私が送迎係で、外食してもお酒が一滴も飲めなかったんだもの!」と母は言う。何事も酒を中心に回る我が家の子供はみんな自動車学校へ通わされ、末弟は実際、たまに母のアッシーを務めているらしい。

親の都合を押し付けられて子供は育つ。私も渋々、免許は取った。けれど、いくら積極的に勧められようと車の運転はしなかった。だって死ぬのが怖いし、楽しいとは思えなかったから。同じ理由で酒盃の勧めのほうを断る子供も、きっといるのだろう。

「大人になって、お酒が飲めるようになれば、きっともっといいことが起こる」というのは、嘘でこそなかったけれど、ちょっと夢を見すぎだったな、とも思う。多くの大人は、さながら「バカになるための水」として、今夜もたくさん酒を飲む。誰かの命令に従うストレスを発散させるために。他人の顔色を窺いつつ、見て見ぬフリして忘れるために。寂しがりや同士が、ただただ座敷でつるむためだけに。私が憧れていた「早くなりたい大人」って、けっしてこんなものじゃなかった。

私だってもちろん、どんなに身体に悪くとも、醜態を晒すかもしれないとわかっていても、ただ、飲むのがやめられないってだけなのだ。ひとたび飲み始めると最後まで家に帰りたがらない、というのが私の一番悪い酒癖で、二日酔いに苦しむたび、「なんだか私、酒を飲むと子供みたいになるよなぁ」とさえ思う。大好きなチョコレートボンボンを頬張る幼い自分に、ものすごく冷ややかな目で蔑まれそうだ。

<今回の住まい>
学生最後の春休み、泥酔して渋谷から乗った東急東横線の終電で、終着駅の元町・中華街まで寝過ごして駅員に叩き起こされたことがある。手持ちの現金では東京の自宅まで帰れない。途方に暮れて深夜のコンビニをうろうろしていると、若い男性に声を掛けられた。そのまま横浜市金沢区にある彼の家までタクシーに同乗し、豪邸の客間の一室に泊めてもらい、翌朝、ご両親と四人で朝食を囲んだ。最寄駅まで送り届けてもらって最後まで指一本触れられなかったのだが、我ながらよくぞ無事だったなと思う。今考えると狐狸の類に化かされたみたいな話だ。「金沢区は善人の住む高級住宅地」というイメージを、私は生涯、持ち続けるだろう。


岡田育
1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。

イラスト: 安海