32番札所「禅師峰寺」から、次の札所33番札所「高福山 雪蹊寺(こうふくざん せっけいじ)」に行くには2通りあり、裏戸大橋を歩いて渡り桂浜を通って行く方法と、フェリーで対岸に渡る方法がある。私は以前から、坂本龍馬の銅像などで有名な桂浜に行ってみたいと思っていたので、迷わず裏戸大橋を渡るコースで行くことにした。

禅師峰寺から裏戸大橋に向かう道は海岸沿いのまっすぐの道だが、日差しが強くて辛い。歩いても歩いてもなかなかつかないなぁ~と思っていたら、車が私の横で止まった。

「もしよかったら、乗ってかない?」

声の主は、50代の女性。私は喜んで乗せてもらうことにした。女性も、私と同じようにお遍路をしているらしく白装束を身につけていた。

「私、高知に住んでるんだけど、辛くなるとお遍路にまわりたくなるんよね」

と女性は身の上話をしてくれた。そして裏戸大橋を渡るときに、突然おどろくようなことを聞かせてくれた。なんでも10数年前その女性は旦那さんを病気で亡くし、小さな子供を抱えて途方にくれていた。それで、真夜中に気がついたらこの裏戸大橋まで歩いて来ていて、飛び込もうとした瞬間に偶然タクシーが通りかかったことで我に返り、そのタクシーに乗って帰宅したそうだ。その女性は、私ともう会うこともないと思って話をしてくれたのか、それとも同じお遍路さんだからしてくれたのかわからない。でも、お遍路をしていなかったらきっと聞けなかっただろう。女性は、親切にも坂本龍馬の銅像の所まで車で送ってくれた。

この日、私は33番札所へは向かわず、龍馬の銅像と写真を撮ったり、坂本龍馬記念館に行ったり、クジラの料理を食べたりと、たっぷり桂浜を堪能して、「裏戸一」という旅館に泊まった。そして翌日、33番札所の雪蹊寺へ向かった。

桂浜の看板

桂浜の海岸

坂本龍馬記念館

雪蹊寺は、延暦年間(782年~806年)に、弘法大師が開基したと伝えられている。創建当時は真言宗で、「少林山 高福寺」だった。鎌倉時代に運慶とその長男の湛慶が訪れて、本尊薬師如来、脇士の月光菩薩、日光菩薩を刻んだので、「慶運寺」と改められたが、その後荒廃してしまったのを、長宗我部元親と月峰上人が再興し、元親の宗派である禅宗の臨済宗に改宗した。そして寺の名前も元親の法号にちなんで「雪蹊寺」に改め、長宗我部の菩提寺となった。

「雪蹊寺」山門

「雪蹊寺」大師堂

「雪蹊寺」本堂

雪蹊寺は明治の廃仏毀釈で、廃寺になったが、明治12(1879)年に山本太玄和尚により再興された。山本太玄の養子となった山本玄峰は若い頃に失明に近い状態になって、裸足で7回遍路に出た。その途中で太玄と出会って、「心眼を開け」との言葉を授かったという。境内には、玄峰和尚が太玄和尚のために建立した碑「太玄塔」があり、その碑の裏側には太玄の生涯が刻まれている。山本太玄と玄峰の話から、眼病祈願をして眼が良くなった信者が奉納したといわれている「眼鏡の額」が大師堂に納められている。外からは見えないが、お願いしたら見せてもらえた。

(左)玄峰和尚が太玄和尚のために建立した碑「太玄塔」(右)運慶と湛慶が刻んだ仏像が祀られている「霊宝殿」

運慶と湛慶が刻んだ仏像は、本堂の裏にある霊宝殿に祀られている。これらの仏像があることにより雪蹊寺は、「鎌倉仏像の宝庫」ともいわれている。霊宝殿は、300円で拝観することができる。中に入ると運慶作と伝えられている本尊の薬師如来像と脇侍の薬師三尊像、湛慶作の毘沙門天と両脇侍に、十二神将は現存する10体が飾られていた。湛慶作の毘沙門天像は、キリッとしてかっこよかった。脇侍の毘沙門天の子どもの善膩師童子像(ぜんにしどうじ)と妻の吉祥天像は、毘沙門天像と比べるとかなり大きさが小さくてかわいらしかった。

鎌倉期の仏像をじっくり拝観し、今回のお遍路はここ33番札所で一旦打ち止めして帰るため、市の中心地へ向かった。