歳を重ねるにつれ「人や物の名前が出てこない」と悩む人は多い。「それが当たり前ですよ」と安心させてくれるのが東京女子医科大学名誉教授で、メディカルクリニック柿の木坂院長である岩田誠氏だ。岩田医師は、神経内科医から「神様」と崇められる存在。長年にわたり数多くのアルツハイマー病患者を診療し「はっと気がつくことがある」という。

臨床の現場ではどんな相談が多いか。介護の心得とは何か。また記憶と脳について見えてきたことは? 第17回自然科学研究機構シンポジウム「記憶の脳科学~私たちはどのようにして覚え忘れていくのか」で岩田医師が語った内容は、アルツハイマー病の患者さんの話から、芸術家の話まで多岐にわたった。

脳は忘れるのが苦手「だから、覚えなければいい」

岩田医師の元に「アルツハイマー病になったのでは?」と心配して訪れる患者には、たとえば人の名前が出てこない、ある動物の名前を別の動物の名前で言ってしまったなどと訴える方がいるそうだ。しかし、岩田医師曰く「人の名前や物の名前、地名は思い出せないのが当たり前です」ときっぱり。

「人間の脳は、忘れることが非常に不得手です。コンピュータはいらなくなった記憶をどんどん消すことができるが、脳はそれができない。だからたまる一方なんです。名前は多い方の場合で万の単位。少ない方でも数千の単位を覚えています。そんなに覚えた中から、1つの名前をとりだすこと自体、『驚異的』なんです」

忘れるのが当たり前、と聞くと妙に安心するが、ではどうしたらいいのだろうか?

「患者さんには『これからは覚えないようにしましょうね』と言います。覚えなければ記憶を取り出しやすくなりますから」

岩田医師によれば、左側の側頭葉の下のところに「語彙の引き出し」があって、覚えた語彙をカテゴリ別に入れていくそうだ。引き出しによってはすぐにいっぱいになる。それが人の名前や物、土地の名前の引き出しであり、無限に増えていく。一方、動詞(泳ぐ、歩くなど)は数が知れているのだという。

「記憶とは何か」について講演する岩田誠 東京女子医科大学名誉教授。メディカルクリニック柿の木坂院長。医学博士

「感情の荷札」がついた記憶は覚えやすい

  記憶には、学習によって得る知識である「意味記憶」、思い出と結びついた「エピソード記憶」、自転車に乗るなど身体で覚える「手続き記憶」などがある。名前を知識として覚える意味記憶は覚えにくく、思い出しにくいのに比べて「感情的な動きが大きいものは覚えやすい」と岩田医師はいう。

たとえば5分前にあったことをしばしば忘れる患者さんに、「何か困ったことはありませんか?」とたずねると「娘と孫の名前を間違えて呼んでしまって本当に恥ずかしい」と答え、細部までよく覚えているという。つまり「呼び間違えた」という出来事に「恥ずかしい」という感情が結びついて、新たなエピソード記憶がしっかり脳の中に形成されているのだという。エピソード記憶にはこのように「嬉しい」、「恥ずかしい」、「怖い」などの「感情の荷札」がついている。荷札が大きいほど覚えやすく、思い出しやすいそうだ。

ところで、この「エピソード記憶」はいつ頃から形成されるのだろう? 岩田医師は「3歳半から4歳」と考えている。次のような理由からだ。

ある出来事は、誰が何をしたという主語と述語、特定の場所や時間の情報が含まれた文章として表現され、さらにその時に感じた感情の荷札がついて、エピソード記憶になる。子供達は3歳半~4歳ぐらいになると、単語の羅列でなく文章を作るようになる。つまり、文章を作る能力が発達する時期と、エピソード記憶を脳内に形成する時期は密接に結びついているのではないか。「きちんとした研究ではないが、ぜひ研究してもらいたい」と岩田医師は科学者によびかける。

芸術家に見られる「丸ごと記憶力」とは

診察に訪れる患者さんには「合唱団に入っていて以前は暗譜ができたのに、今はできない。病気では?」と心配する人もいるそうだ。結論から言えば、丸ごと記憶する能力が衰えても、アルツハイマー病とは関係ないという。

そもそも「丸暗記の能力」とは何か。楽譜やお経を覚えたり、円周率を何桁も覚えたりする能力を、人間は確かに持っている。言葉による丸暗記だけでなく、視覚による丸暗記もあり、特に芸術家は長けているという。

たとえばピカソの伝記によれば、すれ違った人のボタンの模様も再生できる。ヴァイオリニストの千住真理子さんは、演奏するときに目をつぶる。目をつぶらないと楽譜が見えないからだ。演奏家は楽譜に書き込みをするが、目をつぶるとその書き込みまで浮かび上がる。目を明けると余計な物が見えて邪魔するのだという。これを岩田医師は「丸ごと記憶」と呼んでいる。

丸ごと記憶で有名なのは、作曲家のモーツァルトだ。14歳の時、システィーナ礼拝堂で門外不出の秘曲であり楽譜が公開されていないミゼレーレという十数分の曲を一度だけ聴いたモーツァルトは宿に帰った後、一曲丸ごと譜面を書き上げた。このエピソードは、彼の「丸ごと記憶」の能力がずば抜けていたことを物語る。

バーバラ・クラフトによるヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの肖像画。門外不出の音楽を一度聞いただけで記憶して譜面に書いたと伝えられる。驚異的な記憶力の持ち主だったのだろう。(画像出典:グラーツ工科大学Webサイト)

この丸ごと記憶は脳のどこでどう理解されているのだろうか。長い間覚えている「超長期記憶」であると共にエピソード記憶に近いものではないか、と岩田医師は考えている。実際に、エピソード記憶の形成に重要な役割を果たす側頭葉に損傷を受けたある患者さんが、専門的な知識(意味記憶)は覚えているのに、5分前のことは覚えていない。そして日本人なら誰もが丸暗記しているような俳句や標語が出てこないなど、丸ごと記憶の能力が失われていたという。

介護の心得。「事実より真実」。「説得より納得」

自分がアルツハイマー病になったのではないか、と診察にくる患者さんは多いが、本物の患者さんは「物忘れはありませんか?」と聞くと、実際は物忘れがあるのに「ない」と答える。忘れたこと自体を忘れてしまうからだ。しかし、過去に得た知識はもっている。

ではそのような患者さんにどう接すればいいか。岩田医師が強調するのは「事実を押しつけない」という点だ。例としてアルツハイマー病の叔母の例をあげた。岩田医師の亡くなった父親の姉である叔母は、岩田医師が訪ねるたび父親と思って話しかけてくる。岩田医師はそのたび「僕は誠です。親父はとっくに死んでますよ」と説得しようとするが叔母は納得しない。ある時、面倒くさくなった岩田医師が父親になりすまして返事をすると、初めて叔母は納得感を得たようだった。自分の真実が認められたと。

この経験から、介護する人に対して岩田医師は「真実は事実より強い」と話すそうだ。「お財布を隠されたとか、夫が浮気しているとか、患者さんが信じていることと事実と異なることはよくあります。でも真実は事実より強く、真実と事実がぶつかったときは、真実に道を譲るしかない。事実を押しつけようとすると失敗します」と説く。

そして「説得より納得してもらうことが大事」とも続ける。たとえば認知症の患者さんは徘徊するとよく言われるが、実は目的もなく歩き回るわけでなく、何かしらの目的があるという。ここで岩田医師は映画「痴呆性老人の世界」の一場面を紹介した。療養所から1人のおばあちゃんが出て行く。「孫が病気だから看病しないと」という目的があるから、誰も止めようとしないで介護士が付き添っていく。歩くうちにおばあちゃんは目的を忘れてしまう。その頃合いを見計らって介護士が「そろそろ帰ろうか」と声をかけると、おばあちゃんは納得して帰っていく。「説得より納得」の素晴らしい例だと岩田医師はいうのだ。

「私たちの脳の中には様々な記憶があり、それらの記憶が行動を大きく左右する。特にアルツハイマー病の患者さんは、新しい記憶や現実世界の事実がなかなか入って来にくい。その一方で子どもの頃に過ごした家や村の記憶が鮮やかに残っていて、行動をコントロールする。その行動を決して否定しないで、どうやれば本人が受け入れられるようにするかを大事にして欲しいと思います」。

脳で何が起こっているかを理解するとともに、『事実より真実』、『説得より納得』という介護の心得をもつことで、病気ともうまくつきあっていけるのではないだろうか。