脳科学は今、もの凄い勢いで進んでいる。アメリカの著名な脳科学者が約20年前に「脳科学は物理学で言えば15~16世紀。まだまだ初歩的な段階」と言っていたのに、「これまで科学で答えられなかった領域に今、どんどん突っ込んでいる。非常に面白い段階」とジャーナリストの立花隆氏は興奮を隠さない。

脳科学の中で今もっともホットな分野である「記憶」について、第一線の科学者らが最新の研究成果を一般向けに話す第17回自然科学研究機構シンポジウム「記憶の脳科学~私たちはどのようにして覚え忘れていくのか」が9月23日、東京で開催された。その内容を数回に分けて紹介しよう。

行動しながら記憶する - ワーキングメモリの容量は3つ!?

多くの人が日常生活で不便を感じ、役立てられることがあるのでは? と感じたのが大阪大学・苧阪(おさか)満里子教授の「ワーキングメモリ:脳のメモ帳」の講演だ。

ワーキングメモリについて講演を行った苧阪満里子教授。大阪大学大学院人間科学研究科教授、大阪大学脳情報通信研究機構教授 (画像提供:自然科学研究機構)

記憶というと「暗記能力」を思い浮かべがちだが、日常生活で暗記に集中する場面はそれほど多くない。それよりもスーパーに買い物に向かいながら夕飯の材料を覚えておく、など何かをしながら短時間だけ記憶することのほうがずっと多い、と苧阪教授はいう。

このように行動しながら記憶することを「ワーキングメモリ」と呼ぶ。たとえば普段の会話でもワーキングメモリを使っている。相手に聞かれた質問を覚えておくことで質問に答えられる。読書でも登場人物や、前の頁の場面を覚えていることで、文脈が理解できるのだ。

ワーキングメモリがうまく働かない例には、「2階に本を取りに行ったのにベランダの洗濯物に気づいて取り込むうちに、何をしに来たか忘れる」、「買い物に行ったのにセール品に気をとられて目的の物を買い忘れる」などがあげられるが、誰でも似たような経験があるのではないだろうか?

では、なぜ私たちは頻繁に目的を忘れるのか。

苧阪教授によれば「ワーキングメモリには制約がある。一度に使える情報処理の量は3つぐらい」とのこと。人は同時に多くの物事を処理することはできないのだ。だが、ワーキングメモリを働かせるのが得意な人とそうでない人がいるらしい。いったいどこが違うのか?

講演ではここで、来場者にワーキングメモリの容量をはかるテストが行われた。

複数の文章を読みながら、文章中の1つの単語だけを覚えていくテスト(リーティングスパンテスト:RST)だ。以下の文章が1枚ずつスライドで投影され、来場者は声を出して読みながら、強調された単語(ターゲット語)だけを覚えるよう促された(実際のテスト場面では、ターゲット語には赤線でアンダーラインがついている)

  1. 水泳をしているためか、母は最近とても元気である。
  2. その花は熱帯の植物なので、北国の寒さには弱い。
  3. 雷のため、電車の切符の販売機が故障した

読み終えた後、文章を見ずに記憶しているターゲット語(上の文章では元気、北国、電車)だけを列挙する。つまり、単に単語を覚えるだけでなく、文章を読みながら単語を覚えるという二重課題が課されているわけだ。3つの文章では正解できる人が多いようだが、5つの文章中の5単語まで増やすと難しくなる。苧阪教授の研究室では大学生50名を対象にRSTを行い、高得点者と低得点者を比べたところ、興味深いことがわかったという。

高得点者は「読解力」に長け、「注意」を正しく向け、「方略」をもつ

大学生にはRSTの他に読解力テスト(大学入試センター試験に準じる長さ)も行っており、相関を調べたところ、高得点者は「高い読解力」があることがわかった。文中にこのような単語や文章が出ていたという記憶力よりも、文章全体で何が書いてあったかという「文脈をとらえる能力」に長けていることがわかったそうだ。 

またRSTを実施中の眼球運動を測定したところ、高得点者はターゲット語に視線が集中していたが、低得点の人は文の中の色々なところに目がいく。つまり何を覚えるべきか、何をおぼえなくていいか、注意が向けられるべき言葉に向けられていない。

さらに文が4つ、5つと増え、覚える単語が増えると、何らかの「方略」を使わないと覚えられなくなるという。たとえばターゲット語を意味的につなげたり、イメージ化したりして覚えるのが方略の例だ。高得点者は、方略を何種類かもっていて1つの方略がうまくいかないと判断したら、途中で他の方略に変えることができる。つまり自分で自分のやり方が正しいかどうか「自己モニタリング」できるのだという。

ワーキングメモリで働くのは、脳のどの部分?

ワーキングメモリを支えるのは、脳のどの部分のどんな働きによるのだろうか。RSTを実施中の実験参加者の脳をfMRI(機能的磁気共鳴画像)などで調べると、脳のどの領域が活発に働いているかがわかる。

苧阪教授が2003年の実験で「意外だった」というのは「ACC(前部帯状回)」が高得点群の人に顕著な活動が見られたことだ。その後の研究で、「DLPFC(背外側前頭前野)」、「SPL(上部頭頂小葉)」の3カ所がワーキングメモリの要となる中央実行形系のネットワークを作っていると考えられている。

SPLは注意の焦点を特定の対象に向ける「注意の切り替え」を担い、DLPFCは「注意を保持」する。そしてACCは注意を向けるべき対象をうまくキャッチしてそうでない対象を「抑制する」働きをする。

苧坂教授が強調するのは「注意の向け方」だ。ワーキングメモリの点数が低い人は決して覚えるのが苦手なのではない。「注意の移動」が苦手だということ。覚えなくていい対象に注意が向けられていたりして、覚えるべき対象に正しく注意が向けられていないようだ。

ワーキングメモリの容量をはかるテストで高得点を撮った人の脳活動を見ると、DLDPC(背外側前頭前野)、ACC(前部帯状回)、 SPL(上部頭頂小葉)の活動がはっきりと強くなっていた(左)。ワーキングメモリはSPL、DLPFC、ACCを中心としたネットワークが中央実行系、つまり司令塔となり情報の保持と処理を可能としていると考えられている(右)

高齢者の特長 - ワーキングメモリを鍛える方法

ワーキングメモリは20~30代がピークで年齢が上がるに従って機能が衰えていくという。

高齢者にRSTを行うと、ターゲット語と違う単語を覚えてしまったり、ターゲット語だけ覚えればいいのに文章全部を覚えようとしたりする傾向が見られる。「つまり焦点化、覚えなくていいことに対する抑制制御がうまく働かないのです」と苧阪教授は指摘する。脳の働きを調べるとACCがほとんど活動を見せない。

では、低下したワーキングメモリの機能は鍛えることができるのか?

苧阪教授は「通常の日常生活を送っていれば、十分にワーキングメモリは鍛えられるので、むやみに鍛える必要はありません」という。会話したり、料理をしたり、買い物に出かけたりする行動のすべてでワーキングメモリを使っているのだと。

しかし、加齢に伴って著しく低下しているときには「イメージング」が効果があるそうだ。覚えるべき単語をイメージして下さいと伝え、絵に描いてもらった。その後では脳内でACCの活動しているのが見られるようになった。

高齢者に絵を描く訓練をしたあとにfMRIで脳の活動を調べたところ、右半球の活動が活発化し(左)、訓練前にはほとんど活動していなかったACCに活動が認められた(右)

イメージングするということは、「頭の中に表象を形成する訓練をする」ということ。その意味では本を読むのも効果的だ。またワーキングメモリで一度に情報処理できるのは3つと書いたが、その「3つ」はイメージ化によって充実させることが可能だ。たとえばカレーの材料をじゃがいも、にんじん、玉ねぎと1つずつ覚えて「3つ」でなく、カレーをイメージ化することですべての材料を「1つ」にまとめて思い出せるようにする。

そして楽しい目的を持つときも、ドーパミンが出てDSPFCが活性化するという。日常生活を楽しく送り、時々は好きな本を読み、余計なことに気を向けず、注意をやるべきことに集中する。これがワーキングメモリを鍛える方法の1つかもしれない。

写真出典

苧阪満里子著 「もの忘れの脳科学」講談社ブルーバックス、2014.
苧阪満里子著 「読書における文の理解とワーキングメモリー」
苧阪直行編 『小説を愉しむ脳』新曜社、2014