今回は阪神電気鉄道の路面電車、国道線・甲子園線について、筆者の思い出をもとに足跡をたどってみたいと思います。以前、「大阪府と兵庫県を結んだ『金魚鉢』電車 - 阪神国道線・甲子園線の記憶」でも紹介しましたが、1970年代半ばに廃止されてしまった路線です。鉄道ファンでも知らない人が多いかもしれません。

阪神国道線・甲子園線を走った「金魚鉢」電車。現在も尼崎市内の公園に保存されている

国道2号線のど真ん中を走っていた阪神国道線

国道線・甲子園線を走っていた電車は、ベージュとマルーンに塗り分けられていました。全体に丸く、車体前面の下側が少し前に突き出した形状をしており、「金魚鉢」という愛称で呼ばれていた……、ということになってますが、筆者も周囲の人たちも「金魚鉢」とは呼ばず、ごく普通に「チンチン電車」で通っていたように記憶しています。

モータリゼーションが進む時代、国道2号線のど真ん中を、モーターのうなる「グモオォォーン!」という重い音や、「ガチャ、ガタタッ、ガダダダッ」という車輪の音などを響かせながら、ゆるゆると走っていた姿がいまも思い出されます。

周囲を乗用車やオート三輪が走る中、道を渡って狭い停留所で待っていると、チンチン電車がやって来ます。ドアが開くと、下からステップが出てきて、それを踏んで乗り込みます。車内はロングシートで、座ると木の床からワックスの香りが。縦長の窓は、おそらく日よけに手が届きにくかったからでしょう、上からひもが垂れていて、揺れるたびに窓に当たり、パシャパシャ音をたてていました。

甲子園駅付近にはいまも甲子園線の名残が

甲子園線は国道線の支線という位置づけで、国道線の上甲子園から甲子園経由で浜甲子園まで結ぶ路線でした。甲子園駅では阪神本線と接続していました。

筆者は当時、甲子園線の沿線に住んでいました。国道線・甲子園線最後の日、筆者はまだ8歳でしたが、なんだかものすごく寂しかったのを覚えています。その日は無料で乗車できたので、浜甲子園から上甲子園まで乗り、記念に売店で回数券を買いました。

古い地図などを見てみると、甲子園線は浜甲子園から先、西に折れて中津浜のあたりまで伸びていたようですが、その頃の記録はなかなか見つかりません。ただ、線路があったと思われる道路は、その辺りでは唯一、昭和の終わり頃まで舗装されず、土の道のまま残っていたと記憶しています。

昔売られていた食玩の「金魚鉢」電車

現在の甲子園駅。かつてここに甲子園線の停留所があった

甲子園駅のチンチン電車の停留場は東口のほうにありました。いまも駅前に、甲子園線の架線柱の遺構が残っていますし、他にもいくつか当時の名残が見られます。ただし、最近は駅の改装工事が進んでいて、駅周辺も通りにくくなっていますが……。

「金魚鉢」電車は尼崎市内の公園に保存されている

阪神国道線・甲子園を走った車両はその後、あちこちで展示され、余生を過ごしていたようです。筆者が知ってる範囲では、まず阪神パーク。敷地の東の端、観覧車の裏手に、ひっそりと展示されていました。それから県道尼宝線沿い、伊丹あたりにあった店舗にも展示されていたように思います。どちらもいつの間にか、姿が見えなくなりました。

しかし、調べてみたところ、別の車両がいまも尼崎市内の公園2カ所に保存されているそうです。早速会いに行ってきました。

水明公園に静態保存された71号

1カ所目は、尼崎ボートレース場の北西側にある水明公園です。ここに展示されてある車両は71号車。いまは四方を完全に金網で囲まれていて近寄れませんが、車両の横にスロープがあり、以前は中に入ることもできたようです。車内はどうやら、公園を管理する人たちが清掃用具などの置き場に利用しているようです。

2カ所目は水明公園の少し東側にある蓬川公園です。ここも見事に車両の周囲を金網で囲まれていますが、74号車が展示されています。やはり中は倉庫として使われているようで、ヘルメットなどの物品が見えました。公園に面して時計が設置されていて、なんだか取って付けたように、「ちょっと役に立ってるんですよ」的なオーラを醸し出しています。車体側面の上部に庇も増設されて、より倉庫として進化した様子がうかがえます。

蓬川公園に静態保存された74号

車内は倉庫と化しているようだった

阪神国道線・甲子園線の廃止から、早いもので40年近く経ちます。こうしてあのときの車両たちを眺めていると、記憶の奥底から、とりとめもないあれやこれやが立ち現れてきます。そして筆者自身の、「えらい年齢になってしまったなあ……」なんて感慨もまた、しみじみとこみ上げてくるのでありました。