1960年7月22日。日本航空のジェット旅客機の第1号機が羽田空港に到着した。ダグラスDC-8-32である。太平洋戦争後の一番機就航当時を知るJAL OBの吉田仟(しげる)氏は、この記念すべき1号機をロサンゼルスのロングビーチにあったダグラス社に受け取りに行ったうちの1人。「ライバルのパン・アメリカン航空(1991年倒産)がその1年前にボーイングのジェット機707を就航していたから、とにかく待ち遠しかった」と当時の社員の思いを代弁する。

DC-8-32。巡航速度876km/h、航続距離7500km、座席数130席。発展する日本航空を象徴する旅客機となった

ロサンゼルスのロングビーチでDC-8-32の1号機を受領し、サンフランシスコ、ホノルルを経由して羽田に到着。同年8月にサンフランシスコ線に就航した。また、9月にはロサンゼルス線、11月にはシアトル線でDC-8-32が投入され、太平洋線はすべてジェット機での運航となった。プロペラ機とジェット機の最大の違いは、言うまでもなくスピードだ。DC-8-32の巡航速度はDC-7Cより約300km/hも増し、876km/h(現在の新鋭機は約900km/h)。航続距離は7,500kmで、理論上は東京からモスクワ辺りまでノンストップで飛べる性能を持っていた。

上層部もあきれるほどこだわったサービス

そして、日本航空がこだわったのがサービスだ。「専務から、そんなにしないとお客は取れないのか」と半ばあきれ気味に言われたほどだったと吉田氏は話す。

当時「一等」と呼ばれたファーストクラスの客室乗務員は一流ホテルでの実習を行った。サービス時は着物姿。機内食には伊勢海老やケーキをまるごと用意し、それを切り分けてサーブしていた。落ち着いた和風の絵画などで装飾されたラウンジも設置。通常の乗務員に加え、食事や酒類のサービスに優れた専門のスチュワードを採用した。日本風の豪華さを持ち、またソムリエ資格を持つ客室乗務員によるサービスへのこだわり。そうした日本航空らしいサービスの基礎はこの頃に形成されたといえるだろう。

「FUJI号」と名付けられた機体の機首部分には「鶴丸」が描かれた

こうした多大な投資と工夫やこだわりは1年ほどで実を結ぶ。ジェット旅客機を先に就航させた他社へ乗り換えていた顧客が、再び戻ってきたのだ。