建設現場はICT化の進んだ場所だと聞いたら意外に思われるだろうか。最近では建設現場の工事関係者が標準的に使えるツールを開発し、建設業界全体の底上げを目指す先進的な取り組みも行われている。

システム開発会社のYSLソリューションが提供する「CheX(チェクロス)」は、建設業界向けに作られた図面共有用のiPadアプリで、現在約60社、日本国内だけでなく海外を含めた1,300現場で利用されているという。

業界標準ツールを必要とする背景は、建設業界に特有の事業環境にある。ゼネコンや、それぞれ得意分野に特化するサブコンなど多くの工事業者が共同で進める建設現場では、図面の変更情報や検査・修正・確認などを電話やFAX、メールによる伝言形式で行っていては、連絡の遅れや作業時間のロスが発生する。電子データとネットワークを活用した新たなICTツールの構築は、建設業界の生産性向上に不可欠という認識は以前から共有されていた。

建設現場ではiPadとCheXの導入が進んでいる

建設業界標準ツールはいかにして生まれたのか

鹿島建設 横浜支店 管理部 担当部長 持田貢氏

建設工事は、元請負会社であるゼネコンと、多くのサブコンで構成される。また、サブコンは工事によってさまざまなゼネコンのもとで工事に従事する。さらに、ゼネコンにおいても大規模工事や公共工事などではJV(共同企業体)を組むこともあり、工事管理に用いるツールを工事内で統一することもある。仮にあるゼネコンが、自社開発した独自アプリの使用を求めたなら、サブコンもJVを構成するゼネコンも複数のアプリの使い方を習得しなくてはならない。これではICTツールの普及は進まず、業務の効率化も阻害しかねない。

「そこで建設業界の標準ツールを開発しようと、YSLソリューション様とプロジェクトを立ち上げたのが2011年2月のことでした」と語るのは、鹿島建設の持田貢氏だ。

同社からは、吉橋悟氏、佐尾雄一氏も加わりツール開発が進められた。建設業ならではのニーズを鹿島建設のメンバーが具体化し、それをもとにYSLソリューションがアプリとして実装していくという体制だ。

鹿島建設 横浜支店 管理部 課長 吉橋悟氏

鹿島建設 横浜支店 管理部 課長代理 佐尾雄一氏

「完成したiPadアプリは『CheX(チェクロス)』という名称で、YSLソリューション様からクラウド型のサービスとして提供されています。社内現場の業務効率化を進めると同時に、工事業者やJVを構成する他社に普及させることを目指していたので、当社はアドバイザー的な立場で開発に携わり、機能の検討や現場での試行などを担当しました。なお、当初から本アプリで利益を得る意図はなく、当社がCheXを利用する際には、一般ユーザーと同様に料金を支払います」(持田氏)

YSLソリューション ITソリューション事業部 サポート室 室長 清川光大氏

料金体系には、業界標準を目指したコンセプトが良く表れている。建設工事は数カ月から数年間続き、工事が完成したら終了となる。その期間だけ利用できるように、「初期費用やアプリの購入費用は不要です。データを格納しておくクラウド上のストレージと、利用者ID数分を合わせた月額料金だけですぐに利用できます。工事が終われば解約し、次の工事が始まれば再度契約していただける、非常にフレキシブルな利用を可能としています」と語るのは、開発に当たったYSLソリューションの清川光大氏だ。

建設工事は、規模の大小にかかわらず、1つとして同じ現場はない。どんな現場でも汎用的に使えるツールとするために、図面や書類を一元管理できる機能に絞り込み、誰でも簡単に操作できることを目指した。特にこだわったのは、図面の表示速度だという。

YSLソリューション イノベーション企画室 室長 梅澤朋之氏

「建設用の図面は非常に細かい線が膨大に書き込まれていて、プロトタイプ版では図面を拡大・縮小した時の再描画に時間がかかってしまい、大きな課題となっていました」と、YSLソリューションの梅澤朋之氏は開発時の苦労を語る。

プロトタイプ版を持って、鹿島建設の現場で使ってもらったところ、「これじゃ使えないよ」と厳しい意見だった。

「そこでストレスなく快適に図面を見られるように描画処理を徹底的に改良し、ようやく現場の方に認めてもらえる速度まで到達させることができました。今では高速描画がCheXの最大の特徴になっています」(梅澤氏)

「CheXの開発では、何度となく当社の建設現場に足を運び、多くの現場担当者に使ってもらい、率直な意見や要望を聞き出してアプリに反映させるよう努めました。作り手の一方的な思い込みと現場のニーズにギャップがあると、開発したアプリは使われません」(吉橋氏)

例えば、図面を拡大・縮小するピンチイン・ピンチアウトの操作でも、現場では軍手をして作業していることが多い。いちいち軍手を外して作業するのは煩雑だとの意見を受け、タッチペンでも操作できるスライダー機能を盛り込むなど、現場の声を取り入れながら完成度を高めていったという。

また、アプリの機能だけでなくネットワーク周りも現場ニーズに即した仕様となっている。

「最近の建設工事では、現場事務所に光ケーブルのネットワークを敷設するのは当たり前になっています。そこで現場事務所内では高速なWi-Fi接続、フィールドに出たら3GやLTEの通信キャリアの電波をつかみにいきます。また、建物の陰や地下など電波の届かない場所でも使えるように、オフラインでの操作も可能にしています」(佐尾氏)

実際にCheXを導入したときの効果は、以下の動画のようなものだ。


CheXに実装された建設業ならではの機能

CheXの利用イメージは、まずゼネコンが工事ごとにCheXのエリアを開設し、必要な図面や資料をクラウド上にアップロードする。続いてサブコンごとにフォルダの利用権限を設定して、必要とする図面・資料を共有するというものだ。一元管理された図面・資料は常に最新版に更新されるため、現場で図面の世代がずれて混乱することはない。なお、現場で利用するiPadは、サブコンが各自で調達する。

一方、各サブコンは1台のiPadで、ゼネコンが異なる複数の工事の図面を利用できるので、機器やアプリを効率的に運用できる。これが、業界標準ツールとした最大のメリットだ。どの現場に入っても、操作に慣れたツールを使い続けられるので、現場にツール習得の負荷をかけない。

フリーハンドもしくはキーボード入力が可能な図面への付箋貼り付け機能では、書き込みを行った利用者を個別のレイヤーで管理するところがユニークだ。書き込みできるのは自分のレイヤーのみだが、他者の書き込みも重ねて表示できるため、管理者が図面に書き込んだ指示を見て職人が作業指示に従うといった情報共有が、図面を通じて実現できる。これにより情報伝達に要する時間が大幅に短縮される。

図面にはメモ書きや写真の貼り込みのほか、該当個所にピンを打って、複数の写真を記録することもできる。図面のピンをタップすれば画像が表示され、撮影した写真にメモも書き込める。検査などで、修正の必要な個所を写真撮影して工事関係者に指示を出せば、リアルタイムでiPadで情報が共有される。デジカメで撮影した写真をプリントアウトして検査票などに貼り付けて指示書を作っていた以前の作業は、大幅に短縮できる。

また、同じ図面に対して複数の利用者が同時にメモや写真を記録できるので、広い範囲を重複することなく確認していくことが可能であり、さらに検査結果の集約も省略できる。このほかにも図面の変更や画像をワンタッチで工事関係者に通知できる機能などを搭載している。

CheXのiPad操作画面。図面の拡大縮小や手書きメモといった現場で必須の機能をシンプルに実装した

ツールの操作性は現場からも高い評価

神奈川県伊勢原市で建設中の伊勢原協同病院移転新築工事は、鹿島建設がゼネコンとなる建設工事である。この現場では、鹿島建設の現場担当者と電気工事および空調衛生工事を請け負うサブコンが、1年以上前からiPadとCheXを活用して工事を進めている。CheXの初期版が完成した段階で、ぜひ使いたいと名乗りを上げたのが三機工業と東洋熱工業だった。

建設中の伊勢原協同病院。施主は神奈川県厚生農業協同組合連合会で、地上7階、地下1階の病院棟を中心に、緩和ケア棟、保育所棟など全3棟からなる。2014年5月末の竣工後はベッド数350床の地域中核総合病院となる

鹿島建設 横浜支店 設備課長 飛田清隆氏

鹿島建設の設備工事課長として現場事務所に常駐し、QCDSE(品質・コスト・工期・安全・環境)の管理に当たる飛田清隆氏は、CheXの操作性を次のように語る。

「紙の図面はA1サイズだと非常にかさばりますが、この大きさでないと細部は読めません。建築図、構造図、設備図(電気設備、衛生設備、空調設備、昇降機その他特殊設備)さらにそれらの施工図など資料は膨大な量になります。また、設計変更や施工調整によって施工図は絶えず変化しています。図面の差し替えが発生すれば、それを関係者全員に周知し配布したり、郵送したりと、以前の図面管理は非常に大変でした。現在ではすべての図面を電子化し、パソコンから修正版の図面をCheXのクラウド上へアップロードし、関係者に一斉メール機能で通知すれば済むので、非常に助かっています」(飛田氏)

iPadのメリットは、図面の細部を拡大して確認できること。紙の図面は、A1判でさえ細部は印刷が不鮮明で分かりにくいこともあるという

必要な図面や資料はすべてクラウド上のCheXに格納し、必要なものをiPadにダウンロードして閲覧できるので、フィールドにかさばる図面を持ち込む必要はなくなった。また、最新の資料をアップロードすれば、自動的に旧版は参照できなくなるので、間違えて古い図面で施工するといったミスを予防できる。

電気設備工事を担当するサブコンの三機工業の佐藤研治氏は、情報共有のスムーズさがCheXを使う最大のメリットだと語る。

三機工業 東京支社 電気技術2部 技術課 技師 佐藤研治氏

「以前は図面をメールやUSBメモリで受け取り、当社のメンバーへメール転送するなどの方法で共有していました。こうしたデータの受け渡しはファイルの世代管理が必要であり、連絡漏れがないようにするなど、神経を使う作業でした。CheXを導入したことで、データの転送作業が不要になり、メンバー全員がiPadや現場事務所のパソコンで同一の図面をリアルタイムに受け取れるようになりました」(佐藤氏)

図面共有以外にも、施工個所の工程内検査にCheXは有効だ。

「iPadを持ってフィールドに行き確認作業を行う際は、問題個所を見つけたらその場で図面と連動した写真を撮り、手書きメモなどを付けてCheXにアップロードすれば、メンバーや作業者にリアルタイムで指示を出せます。現場を一巡りして事務所に戻ってから指示を出していた以前に比べ、次の作業に移るタイミングは数時間~半日程度は早くなりました」(佐藤氏)

工程内検査で問題個所を見つけたら、CheXの図面上にピンを立てiPadから写真を撮影(左)。写真に手書きメモも添えられる(右)。最後にCheXのクラウド上にアップロードで情報共有は完了だ

空調・衛生設備工事を担当するサブコンの東洋熱工業の田野倉和寿氏は、施工図の頻繁な修正にCheXのクラウド機能が大いに役立っているという。基本設計図を元に、実際に施工する作業員に対しては、ダクトや配管の取り回しを指示した詳細な施工図を書き起こす必要がある。

東洋熱工業 横浜支店 技術部 工事課 主事 田野倉和寿氏

「屋根内の狭い空間には空調設備や電気配線などが複雑に張り巡らされるので、それぞれの干渉を回避するため、毎日のように施工図をパソコンで作成する必要があります。以前はそれをプリントアウトして製本し、関係者に配付するという作業が延々と発生していました。CheXを使うことでプリント・製本・配付といった作業はなくなり、パソコンから図面データをアップロードするだけです。こうした更新作業の時間は半分程度に軽減されました。また、現場に持ち出せる図面の量に制限がなくなったことで、検査時の見誤りも防げます」(田野倉氏)

今後の展開

取材時点で60社、約4,500ユーザーの利用があるCheXは、日々導入企業が増えている。鹿島建設も、より広く建設業界に普及させるべく展開活動を進めている。また、2013年2月の日本建設業連合会 IT推進部会 スマートデバイス専門部会が主催したITセミナーでもCheXは紹介されている。

鹿島建設 ITソリューション部 企画管理グループ 課長 森田順也氏

「図面は、空港や病院などの重要施設は言うまでもなく、施設の安全利用に関わるので情報漏えいは許されません。Chexのようなインターネット上のクラウドサービスを、無線で通信するスマートデバイスで扱う場合、安心して使うためには強固な情報セキュリティ対策が必要となります。しかし、広く普及させるためには多くの工事関係者が楽に導入できることも考えなければなりません。1工事1企業の都合だけでなく、業界全体で通用するルール作りが必要なのです」と語るのは、鹿島建設の森田順也氏だ。

同様の問題意識を持つゼネコンから有識者が集まり、クラウドサービス、スマートデバイス、無線通信などを工事現場で使うためのルールを定め、業界標準となる「建設現場ネットワークの構築と運用ガイドライン」(2013年11月、日本建設業連合会のWebサイトに掲載)を策定したという。同社 ITソリューション部ではクラウド・コンピューティングの前進であるグリッド・コンピューティングと言われていた時代から、コンピュータサービスのネットワーク経由での利用方法を検証しており、すでに高速計算機利用や電子メールなどのクラウド利用に実績がある。それらの経験は、CheXなどのクラウドサービスに求めるセキュリティ要件策定にも役立ったという。

日本建設業連合会が2013年に実施した「スマートデバイス利用に関するアンケート調査報告」では、「スマートフォンやタブレット端末を利用中」が42%、「試験導入評価中」が42%、「計画あり」が16%との回答があり、スマートデバイス専門部会に参加する大手建設業12社すべてがスマートデバイスの利用について前向きな姿勢を見せている。

東日本大震災の復興事業や東京オリンピック・パラリンピックに向けたインフラ整備などで今後は人手不足が深刻となるといわれる建設業界だが、積極的なICT活用を進めることで高い生産性を獲得するまたとない機会になるかもしれない。