地域医療の現場から寄せられる医師不足の声を受けて、政府・与党が「緊急医師確保対策について」という施策を発表したのは平成19年5月。そこでは「病院勤務医の過重な労働を解消するため、交代勤務制など医師の働きやすい勤務環境の整備、医師、看護師等の業務分担の見直し」が急務とされ、全国の医療機関でその対策が始まった。

鳥取県東部にあって、急性期医療や高度な医療を提供できる基幹的な医療機関である鳥取県立中央病院は、昭和50年代から救命救急センターを有し、近年は周産期医療にも力を注いでおり、救急患者や重症患者を多く受け入れている。そのため、日夜を問わず搬送されてくる急患の対応や入院患者の容態急変などに対応する医師の精神的・肉体的な負担は少なくない。そこでITを活用した独自の負担軽減策を導入している。

鳥取県東部の基幹病院である鳥取県立中央病院

当番制で自宅待機する専門医の負荷軽減に向けた取り組み

同院での夜間における当直体制は、内科、外科、整形外科などの医師が交替で当たる救急外来の当直医が1人、救急対応する看護師が2人、院内で発生する諸問題に院長代行的な意味合いで対応する管理当直として看護師長が1人、さらにレントゲン技師や検査技師、薬剤師が1人ずつという人員配置である。

しかし、これだけでは十分な救急対応は行えず、当直医師では診断や処置が難しい場合もある。例えば内科医が当直中に、重篤な外傷患者が救急搬送された場合、当直医は当番制で待機している外科の専門医に電話連絡し、処置内容の助言を受けたり、必要ならば病院に駆け付けるよう依頼する。

鳥取県立中央病院 医療情報管理室 副室長 小谷訓男氏

「待機医は通常の勤務を終えると、自宅に帰って食事をして風呂に入り、就寝するという通常の生活を送ります。特に呼び出しがなければ翌日に出勤すればよいのですが、急患や急変で呼び出しが掛かると、深夜や休日を問わず病院に駆け付けて診断や処置に当たります」と語るのは、医療情報管理室 副室長 小谷訓男氏である。

寝ているところを起こされて、病院に駆け付け2~3時間は対応に当たり、患者が落ち着くとようやく帰宅できる。当然、睡眠時間を削ることになるので、翌日は寝不足状態で勤務に当たることになる。

「こうした緊急対応は医師の肉体的な負担は大きく、また常に呼び出しがあるかもしれないという状況は、精神的にもきついものです。こうした医師の負荷を何とかしたいという思いがありました」(小谷氏)

院内の電子カルテを自宅でも閲覧できるデバイスとしてiPadを導入

当直医から待機医への電話連絡では、詳細な状況を知らせるのは難しく、検査の数値やレントゲン写真などの画像も共有できない。そこで中軽症の患者であっても、万が一に備えたいという医師の責任感から病院に来てしまうケースも少なくないという。

そこで同院は、すでに導入済みだった電子カルテシステムを待機医の自宅から安全に閲覧できるシステムを導入した。待機医が使用するデバイスは、起動が早く、レントゲン写真などを確認するのに十分な画質解像度があるとして、iPadが選定された。これにより、当直医と待機医は同一のカルテを見ながら会話できる環境が整った。導入された電子カルテの遠隔閲覧システムを実際に利用している神経内科の周藤豊氏は、そのメリットを次のように語る。

鳥取県立中央病院 神経内科 周藤豊氏

「カルテの内容を自宅で確認できるのは、待機医にとって非常に有効です。以前なら当直医から電話連絡を受けると、まず必要な処置を指示しますが、その後の経過が気になって病院に行って対応することが多かったです。iPadの導入後は、処置をした患者の経過が電子カルテに随時記録されていくので、それを自宅から確認して、問題があるケースのみ病院に行けばよくなりました。リアルタイムに電子カルテを確認することで、行く/行かないの判断をスムーズにできるようなった結果、病院に駆け付ける回数は、2~3割程度減りました」(周藤氏)

自宅待機の当番が月12日(5日に2日)ほど回ってくる周藤医師は、急患が多く脳梗塞などの重篤な患者も来る神経内科に所属するため、待機日の3日に1回は病院に呼ばれるという。それが本システム導入により、月に2~3回は自宅で指示を出せばよくなったのだから、かなりの負荷軽減につながっている。さらに周藤氏は「自分が出した指示の経過をカルテで追跡できると安心感が違います」と、精神的な効果もあると指摘した。

iPadから電子カルテシステムを開いたところ。レントゲン写真なども鮮明に表示される

緊急対応のほかにも、iPadにより医師の業務に改善効果

このシステムは当初、救急医療を担当する医師の負荷軽減を目的に導入されたが、運用が進むうちに想定外の導入効果も現れてきた。

例えば、医師は学会出席などの出張時には、自分の受け持つ入院患者の処置を他の医師に頼んでおくのだが、それでも患者の容体は気になるという。そんな時でも、iPadを携帯していればどこにいても電子カルテを参照して、患者の経過を確認できる。仮に問題が見つかれば、すぐに電話で病院に連絡を入れ必要な処置を指示できるので安心できるという。

「また若い研修医から診断や処置に関する相談の電話がかかってきて、電話だけでは状況がよくわからない場合でも、iPadでカルテを見ながら会話をすると的確に指導やアドバイスを出せますし、後輩たちの仕事がうまくいっているか、指導の確認のためにも活用できています」(周藤氏)

患者の個人情報を流出させない強固なセキュリティ対策

医師のワークライフバランス改善に取り組んでいる医療情報管理室 副主幹 皆川昇司氏は、救急対応に当たる勤務医の過労は全国の救急病院に共通した課題だという。

鳥取県立中央病院 医療情報管理室 副主幹 皆川昇司氏

「私たち医療職以外の職員が、医師の過重労働に対して、これまでは『頑張ってください』としか言えませんでしたが、少しでも快適な医師の職場環境を提供するために、医師の負担軽減につながるITシステムを模索していました」(皆川氏)

待機する医師が自宅で電子カルテを閲覧できたらというアイデアは漠然とあったが、患者の個人情報であるカルテを安全に院外から見る手段はイメージできないでいた。そんなとき、システム開発会社のケイズからセキュリティ対策を備えた遠隔閲覧システムを提案されたことで、状況は大きく動き出したという。

ケイズ クラウド営業部 販売課 石田知也氏

「強固なセキュリティを必須条件として、電子カルテの遠隔閲覧システムを提案しました。当初はシンクライアント型のパソコンにデータ通信カード、USB接続の指紋認証デバイスの組み合わせで進めていたところ、iPadから3G回線を使ってインターネットを介さない完全閉域のネットワーク構成が可能だと分かり、iPadを使った提案に変更しました」とケイズのクラウド営業部 販売課 石田知也氏は振り返る。

デバイスをiPadに変更したことで、データ通信カードは不要になり、持ち運びに便利で起動も早いといったタブレット端末のメリットがもたらされた。指紋認証デバイスはiPadでは利用できないため、代わりにワンタイムパスワードを利用して、ログイン時のセキュリティを強化している。iPadから利用するアプリは「Citrix XenDesktop」というデスクトップ仮想化ソリューションで、iPadから院内のWindows画面を開き、通常のデスクトップパソコンと同様に、あらゆる電子カルテシステムにアクセスできるという内容だ。

iPadから開いた「Citrix XenDesktop」のログイン画面。下はワンタイムパスワードを生成する装置

システム構成が固まった時点で、院内にテスト環境を構築して、医師を招いて実際にデモ機に触れてもらう機会を設けたところ、「使い勝手がいい」「Citrixの画面操作はサクサク動く」と好評だった。レントゲン写真やCTスキャン画像については、放射線科の部長医師に確認してもらい、通常の診察では画像の解像度に問題ないとの評価を得た。

医師の利用希望を取った結果、iPadを28台、iPhoneを2台の導入が決定した。使い方は各診療科に任せており、部長と待機医が常時持っている診療科もあれば、特定の医師が携帯することもある。特にiPhoneを希望した脳神経外科は、24時間肌身離さずに携帯して、仮に通勤途中に電話がかかってきても、すぐに画像を見られるようにしている。

医師の人員を十分に確保することが難しい今日、医師に良好な職場環境を提供できるかどうかは、医療水準を維持するための非常に重要な要素となっている。同院のようにITを活用したワークライフバランスの改善は、急性期病院では大いに参考にできる取り組みといえるだろう。