江戸時代を世界につなぎ留めた"日本の窓"

"端"という言葉には、地理的な端っこだけではなく、時系列的なエッジ、つまり時代の最先端という意味もある。江戸時代、西洋に向けて唯一開かれた長崎という町は、まさに世界への窓であり、日本の最先端だった。

長崎……すなわち江戸時代の日本と世界を結ぶ町。それを象徴的に示す存在といえば、やはり出島だろう。長崎の現代の玄関口といえば長崎空港であり、あるいは鉄道の駅であったりするわけだが、江戸時代の長崎の、いや日本という国の玄関口といえば、出島しかなかった。

出島。この島の存在自体は、改めて説明するまでもないだろう。江戸時代はそのほとんどの期間で鎖国体制を敷いていたが、鎖国中も唯一の例外として西洋(オランダ)との貿易が許された場所が、ここ長崎出島である。子どもの頃から学校で教えられているだろうし、日本人ならまず誰もが知っている、超有名な歴史的地名といえる。

けれどその実、ではその出島に行ったことがあるかと尋ねてみると、ないという人が意外に多いことと思う。それもまあ仕方がない。出島の史跡自体は古くからあったが、「出島」という島の形に即してある程度きちんと復元され、観光施設として訪れることができるようになったのは、ほんのつい最近のことなのだから。

復元された長崎出島の東側入り口。出島は南側にゆるやかな弧を描く扇形をしており、東側入り口は島の南東端に当たる。青い建物は明治前期に建造された旧出島神学校で、日本最古のプロテスタント神学校

東側入り口付近の外壁に復元された、南側護岸の石垣。左側はかつて海だった部分である。南側護岸は現在のところ約180mの長さにわたって復元されている

上の写真のすぐそばに立つ案内板には、護岸石垣の位置に加え、出島の当時と現在の形を比較した地図も表示されている。現在の出島は、東西南の3方向は概ね当時の状態と等しいが、北側は大幅に削られているのがわかる

出島は長崎の中心街のひとつ「新地」から程近いところにある。長崎を訪れたことがある人なら、中華街のそばだといえばわかりやすいだろうか。

史跡としての出島の入り口は、東側(島の南東端)と西側(島の西端)の2カ所。中華街の北門・玄武門(新地橋のたもと)からなら、銅座川沿いに港方向へ5分も歩けば出島の東側入り口に到着する。

長崎空港からバスで直接きた場合は、終点の長崎駅前まで行かず、手前の長崎新地ターミナルで降りるとベンリ。やはり徒歩5分ほどで着く。路面電車なら、出島の電停から西側の入り口(水門)がすぐそこだし、築町の電停からも東側入り口(旧出島神学校)が1、2分というところである。

観光船が出る港や、ウォーターフロントの注目スポット・長崎出島ワーフからも近いし、オランダ坂も徒歩圏内。大浦天主堂やグラバー園、浦上天主堂といった有名スポット、さらにJR長崎駅にも路面電車でダイレクトにアクセスできる。長崎観光に行く機会があったら、江戸時代の日本の"端"に触れるためにも、新しくなった出島をぜひとも訪れてみてほしい。

かつては島だった出島も、現在は市街地のただ中。周囲は埋め立てられ、島であった時代の面影はない。写真は東側入り口の手前から北方向を見ているところ。道路中央の舗装の色が異なっているところから左が当時の出島のエリアだった

東側入り口から出島に入り、旧出島神学校を抜けると最初に目に入る出島のジオラマ、その名も「ミニ出島」。実際の約15分の1ということでけっこう大きく、当時の出島の様子をなんとなくしのぶことができる

2世紀を超える出島の歴史を感じる

長崎出島の歴史を簡単に振り返っておこう。出島は江戸時代初期の1636(寛永13)年に完成した人工島である。長崎の南の海を扇形に埋め立て、キリスト教布教禁止に伴いポルトガル人を収容した。この翌年に島原の乱が起こった結果、幕府はポルトガル人の追放を決定。当然、出島からも追放され、代わりにオランダ人が日本との貿易を独占することになる。1641(寛永18)年、平戸にあったオランダ商館が出島に移転し、われわれの知る「オランダ人が出入りする長崎出島」の歴史がスタートした。

時代は下り、幕末。アメリカ、イギリスをはじめとする列強各国との不平等条約締結によって横浜、神戸など日本各地の港が開かれ、"世界への窓口"であった出島の役割は事実上終了。1859(安政6)年、218年間の役目を終えてオランダ商館が出島から撤退した。

明治に入ると、出島周囲の埋め立てが盛んに行われるようになる。最終的には1904(明治37)年、長崎港の港湾改良工事によって、出島の姿はこの世から完全に失われた。

(上)出島北側の表門を、対岸の江戸町より撮影。手前に流れる中島川は、かつて出島と長崎の陸地を分ける海であり、"国境"のようなものだった。その上を出島と江戸町を結ぶ橋が架けられていた。なお、北側の表門は、当時よりやや南の位置に復元されている(右)表門のそばに立つ「バドミントン伝来之地」碑。日本で最初にバドミントンをプレイしたのは出島に住んでいたオランダ人だったらしい……

さて、その出島、復元状況はどんな感じだろうか。出島の跡地は大正時代に国史跡に指定され、その後も建物の部分的な復元作業は行われていたが、長崎市による本格的な復元事業がスタートしたのは20世紀も終わりに近い1996年度のこと。往時の出島にあったオランダ商館および関連建築物の復元計画が策定され、3つの段階に分けて事業を進めている。

その復元計画、現在は第1段階(島の西・北ゾーン)と第2段階(中央ゾーン)を終えたところだ。長崎市では第2段階まで終了した時点で、出島を一種のテーマパークのような史跡として2006年に新オープンした(国指定史跡としての名称は「出島和蘭商館跡」という)。

長崎市による3段階の復元事業のうち第2期までが完成済みで、写真のように街角の姿もかなり再現された。往時の出島の姿が徐々に整いつつあることを実感できる

"カピタン"と呼ばれたオランダ商館長の事務所兼居所「カピタン部屋」をはじめ、当時の建物が続々復元され、気合の入った立て札も立つ(左)。カピタン部屋の内部は畳に洋風装飾と和洋折衷のスタイルだ(右)

カピタン部屋のテラスは出島の南岸西側に臨む。当時はここから海が見えたのであろうが、現在は市街地の真ん中。路面電車が頻繁に行き交い、時代の移り変わりを感じさせるポイントだ

そんなわけで、出島内の建造物については残すところ東・南ゾーンの第3段階のみで、実はかなりの部分が出来上がっている。にもかかわらず、現在の出島の姿は、正直やや物足りない。……何が物足りないか。やはりどうしても気になってしまうのは、現在の出島は「島ではない」ということだ。

江戸時代当時はもちろん島だった。しかし埋め立て工事で周囲の海は失われ、現在の出島はまるっきり陸地の中にある。かろうじて当時の出島と陸地とを分けていた北側部分が中島川として運河のように残っているけれど、南側や東西側のかつて一面海であったはずの部分には、いまや海の面影が一切なく、ビルや住宅が建ち並び、路面電車と自動車がひっきりなしに走っている。

現在の出島の感覚は、明らかに市街地の一部。"島"なのに海がない。町中に突然姿を現すその一角を「ここが出島ですよ」と言われても、どうしたって最初はやや興ざめがあるわけだ。

島の中央付近に建つ「旧長崎内外クラブ」の優雅な姿。長崎の財界人や在留外国人らが社交の場として利用した建物だ。現在、内部は1階が素敵な休憩所になっており、2階にはマントルピースなど当時の部屋の様子が展示されている

出島の西端部にある「水門」。貿易のために使われた門で、当時、門の前には荷船用の桟橋が設けられていた。現在ではこの脇が出島の西側入り口になっている

水門近くの中島川に架かる橋の上から出島を望む。島の北西側から見ている格好だ。出島っぽさをいちばん感じられるロケーションではあるが、その向こうに放送局などのビルが建ち並ぶ光景は、やはりちょっと残念……

しかし……思うのである、それも歴史というやつなのだな、と。実際に出島の中に入ってしまえば、いま現在の復元状況でも出島気分を味わい、歴史に思いを馳せることができる。それはそれで素敵な経験である。長崎市では2010年度までに第3段階(西側部分)の計画を遂行し、出島内の建物復元作業を完了させる予定。さらに将来的には、出島自体を当時の姿になるべく近づけるよう、周囲を堀で囲む計画だという。

そのときこそ、江戸時代当時の扇形の"島"の姿が、時間を超えて21世紀へひょこっと顔を出すことになるだろう。ただし、こちらのほうは「長期計画」とのことなので、まだしばらく先になるかもしれない。

長崎は西洋への窓口であったと同時に、中国にもっとも近い日本でもあった。古くから中国文化が真っ先に到達し、その影響を色濃く残す風物も多い。長崎新地中華街は日本三大中華街のひとつ(横浜、神戸と比べると規模は小さいが)。名物「角煮まん」を頬張りながら歩くのもよし

出島の西端から西へ直線距離ほぼ100m、長崎港の出島岸壁に面して建つ「長崎出島ワーフ」。飲食店などが多数入居する人気のスポット

最後に。本記事を書いたのは8月9日のこと。戦後63年の長崎原爆忌である。戦争や紛争が依然多発するこの地球。平和を求める長崎の声は、まだ世界に届かない。(写真は平和公園にて2008年7月中旬撮影)

次回は長崎後編、龍馬が過ごした初物尽くしの町、をお送りします。