与論島は、空から見ても海から見ても平坦に見える島である。前回、与論から沖縄本島最北 端の辺戸岬(へどみさき)まで30kmもないと書いたが、その辺戸岬から与論を見ても、島は水平線に平たく張り付くように見える。しかし実際の与論島は、とてもじゃないが平坦な島だとは言いたくない。島を歩いてみればすぐにわかる。平らなところはあまりなく、サトウキビ畑に埋め尽くされたなだらかな起伏が、あるいは上がり、あるいは下がりして続いている。だから自転車を借りて回ろうと思うと、これが想像以上に疲れる。陽射しの暑い季節は暑さに疲れ、肌寒い冬の日は北風に疲れる。周囲20kmちょっとというのも、歩きごたえもあるし走りごたえもある。

間近に迫る沖縄本島を望む

島でいちばん高い地点は、標高98m程度。島の南側、沖縄本島に向かい合った「城」(グスク)と呼ばれる地区が、この島でもっとも高い場所となる。

グスクという名がついていることからわかるように、この地区にはかつて、城があった。 琉球王朝が統一される以前、沖縄には北山、中山、南山の三つの政権が共存した。これを三山時代と呼ぶのだが、沖縄本島のすぐ北に浮かぶ与論島は、このうち北山の支配下となっていた。15世紀初め、時の北山王の子が与論の南部、沖縄と海を挟んで相対した丘の上に城を築き始めた。しかしちょうどその頃、北山は中山によって滅ぼされてしまう。結局、与論の城が完成を見ることはなかった。

沖縄本島北部やんばるの山並みは、与論のあちこちから眺めることができる。沖縄とは反対方向である島の北部からでも、南側が開けてさえいれば、その島影が見通せるくらいだ。が、やはり距離的に近いこの城跡の丘上から望むのが、爽快さ一番である。

城跡の丘上から見た、やんばる地方の姿。向かって右端が沖縄本島最北端の辺戸岬となる。この日はかなり霞んではいたが、それでも実際に目にすれば巨大な沖縄の姿が間近に迫ってくるようで、圧倒される

この与論と沖縄本島の間に横たわる狭い海が、1972年までの一時代、日本と"アメリカ"の国境であった。そこには北緯27度線が通る。私たち日本人は、朝鮮半島の休戦ラインである北緯38度線のことはよく知っていても、「北緯27度線」といわれてピンとくる人はあまりいないかもしれない。

しかし、沖縄の本土復帰前、日本と"アメリカ"の国境は北緯27度線だった。その27度線が通るこの海では、与論と沖縄の人々の間で、沖縄返還を願うさまざまなイベントが行われたという。

当時、ここから目の前の"アメリカ"を、いやそれまで見慣れていた「沖縄」が異国となった姿を見つめていた人々は、はたしてどのような気持ちであったろうか。

城跡は島の南部だが、最南端というわけではない。丘の下には起伏に富んだサトウキビ畑が続いている。その向こうの海に、かつて日本と"アメリカ"の国境となっていた北緯27度線が通る

海に臨む崖の上に、俳人・山口誓子が詠んだ「原始より碧海 冬も色変へず」の句碑が建つ。城跡の敷地は現在、琴平神社となり、資料館と展望台を兼ねたサザンクロスセンターというタワーも建っている

与論の歌の心と、かりゆしバンド

与論の繁華街(といっても規模は想像にお任せしたいところだが……)・茶花の通称"銀座通り"にある「民謡酒場かりゆし」。ここを拠点に活動するのが「かりゆしバンド」だ。1996年の結成以降、この店や全国各地のイベントなどで、与論や沖縄民謡、またオリジナルの歌を、歌い続けている。

かりゆしバンドのリーダー、田畑哲彦さんは、現在50代前半。沖縄返還当時は与論高校に通う生徒だった。 返還前は「(与論が)"日本の端"という意識はやっぱりありましたよ」と語る。「沖縄の辺戸岬と、与論の間で、松明をたいてね。その頃のことはよく覚えています」。

沖縄復帰直前、辺戸岬と与論からそれぞれ、かがり火で友好の合図を送り合ったという話はよく知られている。そのほか、27度線の見えない国境を挟み、与論、沖縄双方から出た船が集まって海上交流をしたこともあった。

与論と沖縄の魂を歌い続ける、かりゆしバンド。民謡酒場かりゆしでは、夜に3度ライブが行われる。ライブ中は島人も観光客も立ち上がって交じり合い、カチャーシー(手をヒラヒラさせる沖縄のあの踊り)で賑やかに盛り上がる

田畑さんはもちろん、戦後生まれ。しかも生まれたときは、与論を含む奄美諸島が一足早く日本に復帰した直後で、すでに沖縄は"異国"だった。「(沖縄が返還されて)よかった、これで自由に船で行ける、と思いましたね。高校の同級生なんか、うれしくて、(返還後に)沖縄まで船を漕いでいってました。でも、近く見えても20km以上あるから、小さなボートでは9時間もかかったみたい。結局、漁船に救出されてましたよ」と、当時の思い出を教えてくれた。

かりゆしバンドは、与論の歌だけでなく、沖縄の歌も歌う。それについての意識を尋ねると「沖縄の歌だというより、自分たちの歌だという意識がありますね」という言葉が返ってきた。「与論の人は、心情的には鹿児島より、沖縄のほうに親近感が強いですよ」、田畑さんは静かにそう言った。

与論献奉と有泉

ところで、与論には「与論献奉」(よろんけんぽう)という独特の儀式(?)がある。民謡酒場かりゆしで飲んでいても、あるいはほかの飲み屋や民宿などでも、この与論献奉が自然と始まることが多い。

簡単にいえば酒の回し飲みなのだが、まず、座の親が口上を述べてから一杯飲み干す。その後、一人ひとりに親が注いで回り、注がれた人はまた挨拶なり何なりを述べてからその一杯を飲み干す。座の全員に一回りしたら終了……ではなく、今度は親が別の人に交代して、またみんなの間を杯が回っていく。まあ、夜が更けるまで(あるいは朝が近づくまで)延々と続いていくわけだ。

沖縄にくわしい人なら、宮古島の「おとーり」を思い浮かべたことだろう。そう、あの飲み方に近い。ただ、使われる酒はちがう。宮古島のおとーりは当然、泡盛。そして与論献奉に使われる酒は、与論の黒糖焼酎「有泉」である。

与論で造られている酒はこの「有泉」のみで、度数は35度、25度などとあるが、与論献奉で使われるのはやや低い20度のものが基本。宮古島のおとーりもかなり薄めた泡盛を用いるのが一般的だが、それと同様の発想であろう。

与論島産の「有泉」。奄美諸島では伝統的にサトウキビで酒を造ってきたため、現在も例外的にサトウキビの焼酎=黒糖焼酎を造ることを認められている。スッキリとして飲みやすいので、ロックでもグングンといける。写真は25度の一升瓶

ただ20度とはいえ、調子に乗って杯を重ねていると痛い目に遭う。とくに黒糖焼酎は口当たりがいいから、ロックでも実に飲みやすい。どこかでセーブしないといけない。 こうして書くと、ちょっぴり怖い儀式のように思われるかもしれない。しかし実際には、途中で酒を断ることもできるし、グイッといかずにちびちびやっても誰にも怒られない。伝統に則った細かなルールもないではないのだが(飲み干したあと杯を手の上で逆さにし、その手で自分の髪をなでる、など)、そのあたりも南の島らしく大らかだから、まあのんびりと、自分にとっての適量(+α程度)まで与論の酒を楽しむという考えでいいと思う。

調子に乗って飲みすぎると、そのまま原っぱや道で寝てしまったりもする。冬の一時期を除けば与論は夜でも暖かいし、ハブもいないから、まあ寝ている分にはさして問題もないのだが、やりすぎた翌朝はやっぱりキツイ。僕も何度か、これはいきすぎたと後悔したことがあった。

そんな二日酔いの頭と腹にうれしいのが、奄美諸島の名物料理・鶏飯(けいはん)である。2007年に農水省が募集した「農山漁村の郷土料理百選」で、山形の芋煮に次いで堂々の全国2位となった。現在の天皇が皇太子時代、奄美大島を訪れて鶏飯を食べ、おかわりを所望したエピソードは有名だ。

温かいご飯の上に、鶏のささみや干ししいたけ、錦糸玉子、パパイヤの漬物などをのせ、鶏がらダシの熱々のスープをかけていただく。さらさら、さらさらと、二日酔いでもどんどんいけるから不思議なものだ。田畑さんから話を聞いた翌日の昼食は、「ヨロンの味 たら」というレストランで鶏飯を平らげた。満腹となった僕は、沖縄返還当時に27度線を挟んで実際に海上交流をした方とお会いするため、起伏の多い与論の道をとぼとぼ歩いて民宿「楽園荘」まで帰っていった。

奄美の名物料理・鶏飯。二日酔いの胃と頭に最高だが、いうまでもなく二日酔いでないときに食べるのがいちばんうまい。写真はヨロン島ヴィレッジ内にある郷土料理店「ヨロンの味 たら」の鶏飯

次回の与論島後編では、27度線を越えて親しい沖縄の地へ、をお届けします。