与那国島の位置

与那国島から台湾までの距離は100km余り。東京から富士山頂までとだいたい同程度である。東京から富士山はけっこうよく見える。なのに与那国から台湾はごくたまにしか見えない。もっと見えてよさそうなものだけれど……。

しかし、与那国と台湾の近さは、数字以外の別の指標もハッキリと示している。与那国島編最終回の今回は、その辺りを軸に書いていこう。

実は与那国島の上空、西側3分の2は、台湾の防空識別圏(国防上の空域)に入っている。これは第二次大戦後、沖縄が米軍統治下に入った際に設定されたものが、その後も続いている結果だ。それゆえに、台湾当局への連絡なしに飛行機が与那国上空へ入ると、台湾空軍がスクランブル発進する可能性があるとのこと。軍事的にやや微妙な位置にあると言えるが、幸い、日本と台湾は緊張関係にないので、現時点では大きな問題もないのだが。

国境ということで微妙な役割も持っているであろう、与那国空港。飛行機の発着がない時間は実にのんびり、閑散としている。売店もほとんどは閉めてあるが、一部開いているところもあるから不思議

台湾との深いつながり

前回、与那国の南にあるとされた伝説の島・はいどなん(南与那国島)について触れた。実際に南へ向かった人がどれほどいたかはわからないし、漕ぎ出でた人々はよほどの運がない限りどこの陸地にも着かなかっただろう。

一方、ここから西へ向かった人は、一所懸命漕げば動力がない時代でも黒潮の流れを越え、あの大きな島・台湾へたどり着いたかもしれない。

にもかかわらず、与那国町が刊行した記録写真集『与那国 沈黙の怒涛 どぅなんの100年』によれば、「古代における台湾との交通を示唆するような伝承は、与那国にほとんど存在しない」という。その状況を一変させたのが、1894~95年の日清戦争だ。これ以降、台湾は日本の統治下に入り、与那国から多くの人々が渡っていった。

現在でも、与那国は台湾の花蓮と友好都市関係を結んでいる。しかし台湾が日本統治下にあった時代は、現在よりもつながりはさらに深く、さまざまな交流が行われたそうだ。

西崎から西側の海を望んだところ。下に見えるのは、第1回でも写真を載せた、日本の真の最西端(?)である岩礁。水平線の向こうには台湾があるはず。そう思ってみれば、山並みがうっすらと……いや、気のせいでしょう

祖納の集落、港に面したところに民俗資料館がある。ここには与那国の歴史や風俗に関するさまざまな資料が所蔵されている。台湾とのつながりについて何か知ることができるかと思い、昼下がり、ここを訪れた。民家の一角と思われる敷地に入り、古びた扉を開けると、おばあ(沖縄でいう、おばあさんのこと。おじいさんはもちろん、おじい)が一人、所在なげに座っていた。

「最近、人がこないからヒマでねぇ」。僕の顔を見るなり、本当にうれしそうにニコニコし始めたおばあ。このおばあが、展示されているすべての資料について事細かに説明してくれる池間苗さんだ。大正8年生まれという。最初に「時間は大丈夫ですか? 」と聞かれたので「何時間でも平気です」と答えると、おばあと二人きりののんびりした時間が流れ始めた。

「戦前、この島の人たちはよく台湾へ行きました。修学旅行も台北でしたよ。あの頃、台北は大都会だったから、内地(東京など)の流行や文化も、沖縄(那覇)を飛び越えて、先に台北から与那国に入ってきてね」。

当時は、与那国で取れたカツオや、家庭で育てていた豚などを、台湾へ売りにいく人も多かったという。前出の本にも「戦前の与那国では台湾銀行券が日本銀行券よりも多く出回っていた」とある。"国境"が取り払われていた時代には、経済的にも文化的にもまさに隣の島だったわけだ。

とはいえ、苗さんによれば、与那国が当時も"日本の端"であったことには変わりなかったらしい。「ここは"果て"でしたね。戦争が終わって、いまは"果て"じゃなくて"最西端"と呼ばれるようになったけどね」。

気がつくと、もう2時間がゆうに過ぎている。その間、訪れる人は誰もいない。苗さんに「お茶でも飲みましょうか~」といわれ、さっき買ってきたばかりというクバの葉餅をいただきながら、昼下がりの談笑タイムはさらに続いた。

クバとはビロウヤシのこと。クバの葉をむくと、中には南国特有(?)のすごい色をした餅がくるまれている。色はともかく味は上品な甘さで、実にうまい。おなかにもたまる。ただ、葉をむくとき、手がベタベタになる

前出の本を開くと、「台北は、与那国の人々にとって最も身近な大都会であり、進学や出稼ぎを目的に台湾に出かけるのは、ごく日常的なことであった。戦前の与那国尋常高等小学校の修学旅行の行く先も台湾だった」とある。苗さんの話のとおりだ。

しかし1945年、日本が太平洋戦争に敗戦し、与那国と台湾はまた引き裂かれることになる。終戦直後こそ与那国と台湾の間には物々交換の取引や密貿易が盛んで、与那国は好景気を迎えていたそうだが、それも数年で終わりを迎えた。米軍による沖縄統治の期間を経て、与那国はふたたび"日本の端"に戻った。

世界最大の蛾と日本最後の日の出

2日目と3日目は、久部良の民宿「もすら」に泊まった。なぜ"もすら"か。ここ与那国には、世界最大の蛾・ヨナグニサンが生息している。羽を広げると20cmを超えるという巨大な蛾で、あの「モスラ」のモデルにもなったといわれている。「もすら」の名はそこから取ったということだ。

「もすら」は素泊まりの宿なので(軽い朝食は付くが)、夕食は久部良にある島料理屋「海響(いすん)」へ出かけた。与那国の泡盛を何合も飲みつつ、カツオやイルカの刺身をいただいた。残念ながらこの時期、カジキの刺身はなかった。

そうそう、沖縄では場所によってイルカを食べる。沖縄以外の地域でもイルカを食べる習慣が残っている土地はあるらしいが、僕はまだ食べたことがなかった。イルカの刺身は湯通ししてあり、さらしクジラのような感じ。まあ同じ海の哺乳類だから味も似ているわけか。

「海響」で食べたイルカの刺身。各地でいろんなものを食べるのが好きだが、イルカは初体験。海辺の地方だけでなく山梨でも食べたそうだが、要するに貴重なタンパク源だったのだろう

「もすら」での2泊のうち1泊目(与那国2日目)は、兵庫から新婚旅行でやってきた若いカップルさんと同宿だった。このご夫婦と話で盛り上がり、翌朝に「日本で最後に昇る朝日を見にいこう」ということになった。そこで3日目の朝は早起きし、彼らのレンタカーで与那国島の東端・東崎(あがりざき)を目指した。

ちなみに沖縄では、東がアガリで、西がイリ。これはやはり日の出日の入りと関係がある。難しいのは北と南で、北はニシ、南はハイ(フェー、パイなど)という。"ニシ向きに寝る"と、日本ではいわゆる北枕になるわけだ。

与那国島を東の端から西の端へと駆け抜け、ちょうど日の出の時間に東崎へ到着した。見事な朝日に、日本でいちばん遅く、おはようございます。

左は日本最後に昇る朝日に輝く東崎灯台。神秘的ともいえる美しさだった。右は昼間に再訪した東崎。この海の向こう、70km少々離れたところには西表島があり、見えるときもあるそうだが、この日は見えなかった

台風が直撃すると、東京辺りでは想像もできない秒速70m級の猛烈な風が吹く。東崎のすぐ近くに立つ風力発電の鉄塔は、3本の羽根のうち1本が折れ、1本がグニャリと曲がっていた

在来種の与那国馬は小型で、おとなしい性格。島では至るところで与那国馬を見かける。左は東崎周辺で、放し飼いになっている馬。別の場所ではガードレールにつながれた白馬も見かけた(右)。小さくてかわいらしい

そして、台湾……

与那国滞在2日目も、3日目も、そして最終日の4日目も、ことあるごとに西崎を訪れたが、西の水平線に台湾は見えなかった。そしていよいよラスト、与那国を去るという直前、通算8回目の西崎訪問で、とうとう!……といきたかったが、やはり台湾は見えずじまいだった。残念。

地理的にも歴史的にもこんなに近い台湾。それなのに見えない台湾。地元の人によれば、フィリピン辺りに台風があるとき、北から風が吹き込んで見えやすくなるとのこと。そうそうめったに見えるものではないと覚悟しつつ訪れた与那国島だったが、やはり最後まで台湾の姿を拝めなかったのは、ちと悔しい。また近いうちにリベンジするぜと固く心に誓ったのであった。

3日目の日没も、こんな具合、台湾がある水平線方向は雲がかかり、太陽も名残の光線を雲の陰から放射するだけだった。これはこれでとてもきれいだけれど

西崎灯台のすぐ脇に建つ東屋の壁には、台湾が見えたときの絵が描かれている。こんなにも大きく見えるものが、なぜ……。仕方がないので、この絵で台湾を見た気分を無理やり味わい、今回は帰路についたのだった

次回は、日本最南・最西端の鉄道今昔物語をお送りします。