「結婚する」と、独身女の中の誰かが言った瞬間に、一瞬、微妙な空気が走ることがあります。つかの間の沈黙ののち「おめでとー!」という歓声が起こるのですが、そのつかの間の沈黙は「天使が通る」ということわざになぞらえて言うならば、「悪魔が通る」一瞬です。

つかの間の沈黙の間、独身女の胸に去来するのは、いったいどのような思いなのでしょうか。「先に嫁かれた……!」という焦りもあるかもしれません。けれど、実感としてはそれよりも、「受験で、自分は落ちて友達だけ受かった」ときの感覚に近いです。

自分は落ちて友達だけ受かった。そのときにどんなことを考えるか。それは「自分は勉強が足りなかった」「友達は、自分よりもずっと勉強し、努力していた」ということです。受験でずるをするのは不可能です。そこで差が出たとなると、恨むのは自分の努力不足しかありません。

結婚は「努力」でするもの?

ここで「えっ、結婚って、努力でするものなの?」と不思議に思われる方も多いと思います。しかし、思い当たることはないでしょうか。誰かが結婚を発表したとき、妙に食い気味に「どこで知り合ったの?」「どうして結婚に至ったの?」と、出会いから結婚に至るまでのプロセスをこと細かに聞き出そうとする独身女性の姿を見たことはないでしょうか。

そう、そうなのです。結婚したいのにできていない独身女にとって、結婚とは「今のままの自分では、できないこと」という捉え方をしてしまうものなのです。

「努力」とは、単純に婚活やお見合いパーティーのような結婚のための出会いの場に行くことだけを指すのではありません。今まで結婚できなかった私は、自分の中の何かが結婚に向いていないからできていないのではないか、という疑問を捨て去ることができません。

しかし、結婚している人にとっては、結婚が「努力」でするものという発想自体がないのです。「たまたま流れでこうなっただけだから」「なんとなく、結婚しようかってことになって」と、その後の良好な夫婦関係は努力の上に築かれているものだとしても、「結婚するために自分はここをこう変えた」「こうしたから結婚できた」などという話は聞いたためしがありません。

まるでOB訪問のように「どうしたら結婚できるんですか!?」と鬼気迫る勢いで質問していると、逆に「いや、結婚ってね、そうやって無理にするもんじゃないよ……」とたしなめられる始末です。

結婚できてない人間からすると、結婚できている人は、自分にはない何かを持っていて、自分にはできていない努力をしている人なのだという先入観があります。独身女が結婚する友人のなれそめを知りたがるのは、きっと自分とは何かが違っていて、その違いが何なのか知りたい、と思うからです。

できた人にとって結婚とは、「本当にたまたま」「こうなるとは思ってなかった」というものなのかもしれません。ですが、できてない人は「自分はたまたま結婚できていないだけ」「結婚するための努力なんて、しなくてもいい」と考えるのは難しいのです。

だから、誰かが結婚する瞬間に、心を悪魔が通るのです。「私はこの人が結婚に向かって努力している間、何をしていたんだろう?」と。その人が「努力の末に」結婚をしたかどうかなんてわからないのに、「自分には何かが足りないせいで結婚できていない」という自己認識を持っているせいで、ありもしない「結婚への努力」という蜃気楼を見てしまうのです。

そして、結婚が努力でするものではないとすると、もうどうしたらいいのかわからない。独身女へのダメ出しや、モテるため、結婚するためにはこうするべしという煽りが有効なのは、独身女自身にも「せめて努力しているという証がほしい」という気持ちがあるからです。

「努力じゃない」と言われても、もしこのまま何もせずにずっと独身のままだったら、と考えると、せめて「精一杯やった」と思える何かがほしい……。私は結局、「努力で結婚できる」という幻にすがりたいだけなのかもしれません。

<著者プロフィール>
雨宮まみ
ライター。いわゆる男性向けエロ本の編集を経て、フリーのライターに。その「ちょっと普通じゃない曲がりくねった女道」を書いた自伝エッセイ『女子をこじらせて』(ポット出版)を昨年上梓。恋愛や女であることと素直に向き合えない「女子の自意識」をテーマに『音楽と人』『POPEYE』などで連載中。

イラスト: 野出木彩