一般的に、「結婚」というのは幸せなことだと考えられています。「結婚したい」と言う独身の人も、どのような結婚を望むか、結婚に何を求めるかは人それぞれであっても、「幸せになりたい」という思いは共通ではないでしょうか。

私はこの連載で、「結婚したい」と何度も書いてきました。その結果というか、「幸せになってほしい」「幸せになってください」と言われることもときどきあります。そう言われると、「こんな私の幸せを願ってくれるなんて!」と、とてもうれしくなります。しかし、ごくまれに小さな違和感を抱くことがあります。

「あなたのためを思って」という凶器

悪い意味での差別や偏見に対しては、気をつけようという意志が働きます。けれど「幸せ」を語ることに関して、気をつけようという意志は働きにくいです。「いいことについて話しているんだから、それが人を傷つけるはずがない」という気持ちが、無意識にあるのではないかと思います。

私は、結婚はしたいですが、今の状態を「結婚してないなんて不幸」「かわいそう」と思われるのは、つらいです。同情は、人から士気を奪います。

結婚できてなくても、私は私なりに、自分がどのように生きてゆくのかということを考えていますし、それをよりよいものにしようと考えています。以前よりも気に入った部屋に住み、仕事も充実しています。

本当にごくまれにですが、良い仕事ができた、と思えたときなどは、心の底から喜びがこみあげてくるし、こんなにいい人生はない、と思うこともあります。そんな生活が、他人から見て「不幸」なのだと思うと、愕然とします。

人は、「幸せ」について、「自分にとっての幸せ」を疑うことはあまりありません。でも、それは他人にとっても同じように「幸せ」であるとは限らないということに鈍感な人は多いと思います。

例えば、私は仕事をしない人生を考えると、気が狂いそうになります。仕事なんかしたくない、辞めたい、と思うときだってあるのにもかかわらず、やはり仕事がしたいのです。

でも、「仕事することが幸せだ」ということを、「自分にとっては」でなく、「誰にとってもそうであるはずだ」と考えてしまったら、それはおかしなことになってしまいます。仕事をしていない人を「幸せではない」と決めつけることになるからです。自分にとって幸せなことを、他人にとっても幸せだ、と押し広げてしまうと、それはあっという間に暴力的なものに変わってしまうのです。

そして、その暴力性には、そこで言われる「幸せ」が一般的なものであればあるほど気付きにくい。何が言いたいかというと、安藤美姫選手のことです。「両親がそろってこそ、幸せな家庭だ」「父親を発表できないような子など、産むべきではない」、こういう価値観が「当たり前」だと思っている人は、実はとても多いと思います。

私は彼女の発表を聞いて、自分にとって「幸せ」とは何なのか、答えが出たような気がしました。「幸せ」とは、自分の意志で自由に生きることです。「こうしたい」と思ったように生きることです。したいことが叶えられる状態こそが「幸せ」であり、叶えられなくとも何度でもチャレンジできる状態も「幸せ」だと言っていいと思います。

それは世間一般で言う「幸せ」ではなくてもいい。私はたまに、仕事も何もかも捨ててしまいたい、と思うことがありますが、そういう人生を選ぶことだってできます。そういう人生を選ぶことができる、そのことが「自由」であり、「幸せ」ではないかと思うのです。

安藤美姫選手の発表は、私にとって「自由」を高らかに宣言するようなすがすがしさがありました。非難をおそれず自由に生きる人の姿は、人を勇気づけるのだと思いました。誰かに「自分の幸せ」を押し付けるのではなく、彼女のように生きられたら。そう感じる出来事でした。

<著者プロフィール>
雨宮まみ
ライター。いわゆる男性向けエロ本の編集を経て、フリーのライターに。その「ちょっと普通じゃない曲がりくねった女道」を書いた自伝エッセイ『女子をこじらせて』(ポット出版)を昨年上梓。恋愛や女であることと素直に向き合えない「女子の自意識」をテーマに『音楽と人』『POPEYE』などで連載中。

イラスト: 野出木彩