先月のある日、Twitterでこんな発言を見ました。「タバコを吸う女性は、チャンスを自分から減らしているのに気づいてないんだろうな。今どき吸う女は恋愛の対象外だって思ってる男はすごく多いのに」。記憶で書いているので、この通りの発言ではありませんが、それを読んで、体中の力が抜けていくような感覚に襲われました。

私を含め、結婚したいと考えている女性は、基本的に男の人に気に入られたいと考えていると思います。

たとえば服を一枚買うだけでも「男受けがいいか、悪いか」を考えたり、髪型を変えるにしても「やっぱり長いほうがモテるのかな」と考えたりします。ばかばかしいと思う人もいるでしょう。でも、「相手がいない」という窮地に陥ったとき、そんなささいなことを真剣に「これをやったら嫌われるかも」「好かれないかも」と、私は考えましたし、今も考えます。こっけいなほどビクビクしている、と自分でも感じるときがあります。

「なぜ結婚がしたいのか」と言われれば、私は誰かと深く愛し合いたいだけです。その約束としての結婚がしたいのです。そんな、ごく普通の感情からスタートしたものが、どうして途中から「こんなことをしたら愛してもらえないのではないか」という強迫観念のようなものにすり替わっていってしまうのでしょう。

「対象外」になることへの恐怖

「恋愛の対象外」。女は、この言葉を物心ついたときから、聞きたくなくても聞かされます。自分に向けられたものとして聞く場合もあれば、他人に向けられたその言葉を聞いてしまう場合もあります。「恋愛がしたい」と思っている女性にとって、その言葉はとてもおそろしいものです。

どれほどの女性が「対象外」と言われないために見た目を磨く努力をし、男に「萎えられない」ために言いたいことも言わずに我慢したりしていることでしょうか。

「タバコを吸う女は対象外」という発言を見た瞬間、私の中にこみあげてきたのは「こんなに我慢して、男に気を遣って暮らしてるのに、まだ何か我慢しろって押し付けてくるのかよ」という、激しい怒りでした。ただ人と愛し合いたいだけなのに、なぜこんなふうに「対象外」になることにおびえ、目に見えない「対象外」の線を踏み越えないようにビクビク気を遣っているのだろう、と思いました。

相手の気を惹こうと、あれこれ悩んでいる時間は楽しいものです。何をしたら喜ぶかなと考えるのも楽しいものです。でもそれが「こうしなければ愛してもらえない」というものに変わると、とたんに息苦しくなる。ましてや「こうしなければ愛してやらないぞ」という視線に出会ったときは、もう、怒りに震えます。

「結婚したい」と思う一方で、「そんなこと言うような男には愛してもらわなくて結構、対象外だと思ってくれて結構。金輪際私には近づかないでくれ」と思います。いったい、こんなことで結婚できるのでしょうか。そう思うと不安にもなりますが、自分の考えを持ち、曲げたくないところがある自分自身のことを、私はどうしても嫌いにはなれないのです。「対象外になるのでは」とビクビクしている自分よりも、「愛してもらわなくて結構」と思える自分のほうが、良いものに感じるのです。

自分らしく生きたいと思って、何がいけないのでしょうか。自分らしく生きたいと思うことは、結婚を遠ざけることなのでしょうか。もしそうなのだとしたら、世の中には希望がなさすぎるような気がします。

愛する人のために何かを我慢し、努力することと、男全体のために何かを我慢し、努力することは全然違います。男全体のために何かを我慢する気は、私にはどうやら、ないみたいです。これは、ただでさえ「対象外」と言われる年齢にさしかかってきたからこそ言える"開き直り"なのかもしれません。

<著者プロフィール>
雨宮まみ
ライター。いわゆる男性向けエロ本の編集を経て、フリーのライターに。その「ちょっと普通じゃない曲がりくねった女道」を書いた自伝エッセイ『女子をこじらせて』(ポット出版)を昨年上梓。恋愛や女であることと素直に向き合えない「女子の自意識」をテーマに『音楽と人』『POPEYE』などで連載中。

イラスト: 野出木彩