『デスノート』『デスノート the Last name』(06年)、スピンオフ作『L change the WorLd』(08年)で大成功を収めた映画『デスノート』シリーズ。誕生から10年の時を経て、映画『デスノート Light up the NEW world』(10月29日公開)が、まさかの続編として復活を遂げる。果たして、その"最終ページ"には一体何が書き込まれたのか。

マイナビニュースでは「独占スクープ 映画『デスノート』の最終ページ」と銘打ち、すべての作品を企画・プロデュースしてきた日本テレビ・佐藤貴博プロデューサーの「今だから語れる」証言を中心に、全20回にわたってその歴史を掘り下げていく。インタビューは合計約5時間、4万字近くにも及んだ。第1回は「映像化権」にまつわる秘話。

――それでは長丁場になりますが、よろしくお願いします(笑)。シリーズの第1弾となるのが、2006年に2部作連続で公開された『デスノート』『デスノートthe Last name』。まずは、日本テレビが映像化の権利を得るまでの経緯をお聞かせください。

シリーズ誕生のきっかけとなった『デスノート』

はい、よろしくお願いします。せっかく何日にもわたって連載をしていただくので、できるだけこれまで語ってこなかったことを話していきたいと思います(笑)。

漫画『DEATH NOTE』は、2003年に『週刊少年ジャンプ』で連載がスタートしました。連載開始当初からこれは凄い連載になると思っていましたが、物語の全貌が見えないうちに映像化の話に行くのは失礼だと思っていましたので、タイミングは2巻が発売されたぐらいだったと記憶しています。Lが登場したところで、手を挙げさせていただきました。

僕らも集英社さんとの付き合いは長いので、争奪戦になることは間違いないけれど「早い者勝ち」では決定されないだろうと思っていました。各社の条件を比べて、ベストのパートナーを見つけるはずだと。日テレ映画事業部内でも「少年ジャンプ連載作品の中で、最も実写化に向いている作品」と獲得を熱望する状況になり、夜神月とLによる「天才同士の闘い」という軸が見えてきたところで、正式に映像化権交渉に入りました。

――映像化権争奪戦の中で、集英社さんが見定めていたのはどういったところだったのでしょうか?

小畑先生を担当していた副編集長(当時)が、映像化の窓口をされていました。少年ジャンプ連載作品の連続アニメ化を数多く手がけられていた方ですが、この「デスノート」については、アニメだけでなく「実写化」を強く意識されていました。また「アニメ」と「実写化」の両方を実現出来るパートナーを探されていたそうです。日本テレビも我々映画事業部からの「実写化」と、アニメチームによる「アニメ化」を一緒に提案出来たのが良かったと思います。そして、通常アニメから映像化するのが通例でしたが、「デスノート」は実写化から攻めたいという集英社さんと日本テレビ映画事業部の意思がシンクロして、実写化を先に進めることになりました。

ここからはどこにも言っていない話です。実は当初、連続ドラマを経ての映画化を提案していました。連続ドラマから連動する形で映画、連続アニメ、そのすべてをやらせていただきたいと。すでにコミックは売れていましたが、それでも少年コミック誌の実写化のハードルが当時は高かった。まずは地上波のパワーを使おうという目論見でした。また、作中では緻密な攻防戦が繰り広げられるので、2時間では描き切れないだろうなと。夜神月をはじめ、魅力的なキャラクターたちをしっかり掘り下げ、地上波で認知度を上げてから映画へと導いていく。

最近でいうと『HiGH&LOW』が連続ドラマから映画へと連動したプロジェクトですが、当時は「踊る大捜査線」という連続ドラマからのメガヒットプロジェクトが他局で成功していた時代です。日テレでも、『家なき子』『金田一少年の事件簿』のようにドラマがヒットした後に映画という流れはありましたが、製作段階からドラマと映画を連動させる企画はまだありませんでした。

――交渉時の段階で、構想はどの程度まで固まっていたんですか?

2部作連続公開の後編にあたる『デスノート the Last name』

ストーリー構成やキャスティング、監督・脚本などのスタッフも具体的には決定していなくて、プロジェクトとしての大きな構造だけ提案していました。このプロジェクトのリーダーは、私の師匠である佐藤敦プロデューサーで、私はセカンドプロデューサー的なポジション。佐藤敦は、映画会社の日活で企画部長をしていて、そこから日テレに移籍してきた変わり種です。日テレに来てからも『家なき子』『銀狼怪奇ファイル』『透明人間』『蘇る金狼』など土曜9時ドラマなどで大ヒットを飛ばし、テレビドラマと映画の両方を企画できる稀有な存在でした。佐藤敦の特性はもちろん、日本テレビとしても、映画単体ではなくテレビとの連動をまず考えたかったのだと思います。

私は2003年に念願だった映画事業部に異動して来て、佐藤敦についてプロデューサーとしてのイロハを学びました。日本テレビ映画事業部はスタジオジブリなど、他社の企画製作作品に出資参加するのが主でしたが、2003年は日本テレビ自社で映画を企画・製作するということを打ち出した年。スタジオジブリと日本テレビの強いパイプを作り上げた奥田誠治が映画事業部部長として自社企画映画製作を推進し始めた年に異動出来たのは幸運でしたね。

私が佐藤敦の下で初めてプロデューサーとしてクレジットされたのが、岡田准一さんと黒木瞳さんが主演された映画『東京タワー Tokyo Tower』(05年)でした。奥田は2005年に公開されて大ヒットした『ALWAYS 三丁目の夕日』も手掛けています。これは当時ROBOTの阿部秀司プロデューサーからの持ち込み企画でした。今、その阿部さんとは、私が映画化権を獲得した『海賊とよばれた男』(2016年12月10日公開)を共にプロデュースしています。

――そういう流れから、『デスノート』で初の試みに挑戦しようと。

ええ。『東京タワー』は興行収入16億を突破し、日本テレビオリジナルの企画・製作でさらなるヒットを狙うための企画が『デスノート』でした。だからこそ、いろいろなチャレンジをしようという目論見があり、「ドラマからの映画」を計画しました。集英社さんも賛同していただき、めでたく日本テレビが映像化の権利を獲得しました。2004年の頃に提案をして、翌年頭ごろに正式にOKをいただきました。

――ところが、実際にはドラマ化はなされなかった。

現場レベルでは連続ドラマ化はオーソライズとれていたのですが、会社上層部を含め全体の議論の中で、幅広い層の方が観られる地上波コンテンツとしては「ノートに名前を書かれた人間は死ぬ」という過激さが当時は認められませんでした。他局も同様の見解だったようで、地上波での連続ドラマを提案していたのはテレビ局としては日本テレビだけだったようです。

映像化の権利を得たのに、日本テレビ社内を通すことができなかった。当時の周辺環境含めて、日本テレビの考査基準を甘く見ていた我々のミスです。昨年、『デスノート』が日本テレビで連続ドラマ化されましたが、それはやはり映画化をして多くの人に認知され、その映画をテレビで放送しても一切苦情がなかったからです。あくまでフィクションとしてのエンターテイメントであると多くの方に認めていただいたからこそ、実現できたわけです。

当時に話を戻しますと、映像化のひとつの条件である連続ドラマ化が崩れてしまったので、すぐに集英社さんに事情説明に伺いました。

夜神月を演じた藤原竜也

――すぐに納得してくれましたか?

いえ(笑)。そもそもの話が違うわけですから、納得してもらえないのも無理ないですよね。おそらく日本テレビの状況を受けて水面下では他局ともお話されていたんじゃないでしょうか。そして、テレビドラマ化に変わる交渉材料として、試行錯誤の上でたどり着いたのが「映画の2部作連続公開」だったわけです。そこで何とかご納得いただきました。それまで、第1弾のヒットを受けて第2弾が製作されることはありましたが、初めから決めた形での連続公開は初めてでした。

――当時、「興行収入100億円」を目標に掲げられていましたが、そういう流れで生まれた数字だったんですね。

現在は松竹で当時ワーナーの宣伝プロデューサーを務められていた関根さんが勝手に言ったこと(笑)。日本テレビでは製作費や目標興行収入などお金の話は当時も今もしないようにしています。日本テレビから具体的な数字として発表しているのは観客動員数ぐらいです。もちろん、打ち上げ花火というか、高い目標を掲げるのはプロジェクトとして必要なことです。日本テレビが言えないことを関根さんが代弁してくださったのかもしれません。

というわけで、2部作連続公開は試行錯誤の上で生み出されたもの。最近では当たり前になりましたが、邦画史上初の試みだったと思います。ドラマは多くの人に見てもらえる反面、制作予算の問題からするとクオリティが下がってしまうかもしれない。結果論になりますが、実写の『デスノート』がここまで受け入れてもらえるようになったのは、「映画が先」だったからなのかもしれません。

――ドラマ化が見送りになり、2部作公開で集英社さんの了解を得た後は、どのような流れだったのでしょうか。

ドラマ化から映画化にシフトしたこともあり、制作準備が整えられず、遅れていました。そんな中、集英社さんから「2006年5月に連載が終わるので、直後のタイミングで公開してほしい」と。そのように決まった時点で、すでに公開まで一年を切っていました。それでも何とか2006年6月と11月に連続で公開されることが決定できました。

当時、邦画の勢いがかなりあった頃で、劇場を空けてくれる配給会社さんがなかなか見つからず……。ほとんどの配給会社さんが2006年秋と2007年春であれば大きな興行チェーンを出せるという状況の中、自らの洋画作品を調整することで、2006年の6月と11月を空けてくれたのがワーナーさんでした。2005年秋の吉報でした。

キャスティングや監督のオファーはそこからです。ここで、チーフプロデューサーの佐藤敦と僕はあるお互い譲れない案件で平行線となり、どちらかだけが残ることになりました。最終的に私が全権を任され、一人でプロデュースしていくことになります。これで私が独り立ち出来ることにはなったわけです。ただ、もともと佐藤敦プロデューサーも「『デスノート』は、始まったら佐藤貴博に任せるつもりだった」と言っていたと人づてには聞きました。

■プロフィール
佐藤貴博(さとう・たかひろ)
1970年4月26日生まれ。山梨県出身。1994年、日本テレビに入社。営業職を経て、2003年に念願の映画事業部に異動する。映画プロデューサーとして、『デスノート』シリーズ、『GANTZ』シリーズ、『桐島、部活やめるってよ』などヒット作話題作を数多く手がける。今年公開作品は、『デスノート Light up the NEW world』(10月29日公開)、『海賊とよばれた男』(12月10日公開)。

(C)大場つぐみ・小畑健/集英社 (C)2006「DEATH NOTE」FILM PARTNERS 監督:金子修介