K7アーキテクチャAthlonプロセッサ登場

AMDが満を持して開発したK7はAMD-AthlonとしてAMD設立30周年にあたる1999年の8月9日に正式発表された。発表の半年前、AMDのマーケティング部門はK7の製品ブランド名の決定の最終議論を行っていた。私も、当時世界で第二番目に大きいPC市場である日本のマーケティング代表としていろいろと意見を聞かれた。他にどのような候補があったかはすっかり忘れてしまったが、AthleteのスピードとTriathlonの強靭さを連想させるAthlonというブランドは、その後のAMDを十年以上支え続けることになる優れた製品のブランドとしては成功した例だと思っている。

そのころから、CPUに巨額の資金を投下しブランドマーケティングを展開するというIntelのパワフルな攻勢にAMDも対抗しようとしていた。日本ではやらなかったが、USではTVコマーシャルも流され、Athlonは結構知られたブランドになりつつあった。その当時、カリフォルニアに出張する時にサンフランシスコでの入国手続きの際、お決まりの「何しに来た、どこに勤めている?」という質問に「AMDだ」と答えると、係官がガッツポーズをしながら「Faster than Intel, right ?(Intelより速いんだって?)」と言ってスタンプをポンと押すのを何度か経験して非常に誇らしかったことを覚えている。

AMD-Athlon (写真協力:佐藤美明氏、大原雄介氏)

AMD vs Intelの"チャレンジデモ"

日本でのプレスへの発表には十分な準備をした。当時、NPRP(New Product Review Program)というのがあり、何十もあったPC関係の雑誌にベンチマークシステムを貸出し、各社が独自に性能比較の記事を用意する。各紙が独自のラボで実際に性能を測るわけだからある程度時間がかかる。それを、週刊、隔週、月間の雑誌各社に貸し出す。各国のPRにあてがわれるシステムには限りがあるから、各紙の発刊時期を考え、うまく回さなければならない。

各紙はその時点で手に入るAMD、Intelの最速のシステムの性能をいろいろなベンチマークソフトで測ってゆく。そのうち各紙がテストした結果が次々と入ってくる。結果は圧倒的にAthlonの優勢であった。そして、プレス発表の当日は100人はいるだろうと思われるホテルのカンファレンスルームで恒例の"チャレンジデモ"というのをやる。

これはK6世代から始めたPRの効果的な手法で、その時の最速プロセッサを使用し、プロセッサ以外はすべて同じ条件(メモリ、ハードディスク、など)でくみ上げたシステムをAMD vs Intelで二つ並べ、プレスの前で実際に"よーいドン"でいろいろなベンチマークをつなげたベンチマークソフトを走らせて先に終わったほうが勝ち、という大変わかりやすいデモである。

当時IntelはAMDの製品をまがい物として正式に認めないという立場をとっていて、Intel側がこれに対抗してくることはなかったのでプレスには非常に受けた。分かりやすく、効果が直に感じられるので、その後はリテールストアでのデモにも使った。

こういったプレスイベントは、技術競争が激化し、AMD、Intelが新製品でしのぎを削るというその後の10年以上の期間で何十回と行ったが、決してAMDがいつも優位にあったわけでは勿論ない。しかし、プレス発表会のひな壇にいて、そのチャレンジデモを横から眺める時にはいつも、"がんばれ、がんばれ、速く行け!! ぶっちぎれ!!"と心の中で考えていて、熾烈な競争の中で勝負する醍醐味をいつも実感していた。AMDの創業者Jerry Sandersが常々言っていたシリコンバレーの企業哲学、"競争のみが革新を生む"という時代を直に感じられる古き良き時代であったと考えると、結局はいつもタフな状況に置かれていたというのが正直な実感ではあるが、同時に私は何とラッキーな経験をしたのだろうかとつくづく思う。

(次回は3月30日に掲載予定です)

著者プロフィール

吉川明日論(よしかわあすろん)
1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Devices)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。その後も半導体業界で勤務したが、今年(2016年)還暦を迎え引退。現在はある大学に学士入学、人文科学の勉強にいそしむ。
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