最終面接は"来週水曜日にサニーベール"

外資系に務めているとやたらと海外出張が多い。何しろ本社がUSなのだから当たり前の話ではあるが、私はUSのカリフォルニア、テキサスを主に、ヨーロッパ、アジア各国と実に多くの海外出張をしてきた。ある年などは、パスポートの出国スタンプを数えていて1年で20近くなっていたのを見て驚いたのを覚えている。

数ある海外出張の中で思い出深いのは、最初の出張と、2回目の出張である。最初の出張は採用面接の時だ。まだ採用されていなかったのだから、正確にいえば出張ではないが、あれは1986年の1月だったろう。Japan Timesの求人欄にAMDがマーケティング担当を募集という広告を見て応募したら、その頃大したマーケティングの経験もなかったが、当時のAMDの東京事務所(新宿にあった)での面接はとんとん拍子に進み、最終面接だという。それで、アメリカ人の日本支社長の秘書が"次は、最終面接で来週になります、行けますか"と言うので、"はい、来られます、何曜日ですか?"と答えたら、"来週水曜日にサニーベール本社です"とこともなげに答える。"えっ?サニー何とかはアメリカなんですか?"というとそこが本社で、マーケティング担当のVP Ben Anixterに会って最終面接となるらしい。

1986年当時サニーベールにあったAMD本社 (出典:「THE SPIRIT OF ADVANCED MICRO DEVICES」)

えらいことになった、と思った。軽く受けたつもりが、アメリカにまで行って最終面接とは。ちょうど、その週に来日していた上席VPのSteve Zelencikとは面接があったのでそれで終わっていたと思ったが、直接の上司の面接で最終決定だという。それで、その週にさっそく日本支社長に電話して、私の上席VPの印象は、と尋ねると、"あまりよくない、本社の面接はもうちょっとAMDの事前勉強をして臨まないとだめだ。行くか行かないかは君次第だ、Good Luck !!"という話だ。がーんと頭を殴られたような衝撃だった。そういえば、私は確かに勉強不足だった…既に仕事をしていたので、職場には適当な理由で3日間の休暇をとり、2泊3日の弾丸ツアー面接である。

USには1度観光で行ったことがあるだけで何もわからない。社長秘書が"サンフランシスコからはどうしますか、レンタカーを借りるのであれば手配しますが?"というので、"レンタカーなんて運転できません、っていうか国際免許もないんです…"、と言うと、"それでは空港からリムジンを手配しますので、名前を書いたプラカードを持った運転手を探してください、これがチケットです、空港からホテルまで運転手がご案内いたします"、ポンと手渡されたのはUnited Airlineのビジネスクラスチケットだった。

翌日、成田空港から出発した。初めて乗るビジネスクラスの雰囲気は素晴らしかったが、何しろ採用の命運がかかっているのでフライトではいろいろなAMD関係の記事を持ち込んで、たくさん勉強した。何しろInternetなどない時代なのだからすぐに集められる情報などには限りがある。フライト中には面接での練習などもした。多分、隣の客は不審に思ったであろう。

マーケティングVP、Ben Anixter (出典:「THE SPIRIT OF ADVANCED MICRO DEVICES」)

果たして、サンフランシスコ空港について自分の名前のプラカードを探したが、リムジンの運転手がいない。待つこと1時間、それでも現れないので周りの人に公衆電話の掛け方を教わって(携帯電話などと言うものは存在していない)。25セントを投入し、AMD本社の面接VPの秘書に電話したら、あっけらかんとした声で、"東京から来た人ね、さっきリムジンの運転手が空で帰って来たので心配していたの。Don't Worry、すぐ行かせますから"ということであった。単純な連絡ミスであったらしいが、こちらは気が気ではない。やっとの思いでホテルにチェックインしたころには完全に疲れ切っていた。今までに泊まったことのないような豪華なホテルだったが、翌日の最終面接への緊張と時差ボケでほとんど眠れなかった。真夜中に、ホテルのウィンドーから外を眺めると、だだっ広い平地にハイウェイ101があり、車がひっきりなしに走っている典型的なカリフォルニアの風景が広がっていたのを今でも思い出す。

面接は意外とあっけなく…

いよいよ面接当日。まず、直接の上司であるDirector Dan Barnhartがホテルのロビーまで迎えに来てくれた、"ようこそ、シリコンバレーへ"とニコニコ顔で握手を求めてきた。Danは私の入社から10年後くらいに心臓発作で亡くなってしまったが、品のいいおじいさんで、いろいろ世話になった。

AMD本社に足を踏み入れて、まず新鮮に覚えているのが、Officeの広いこと。しかも、お偉方は壁際の個室に入っていて、その前に秘書のデスクがある。そのほかのスタッフは皆Cubicleと呼ばれるつい立てで囲われている自分のスペースを持っていて、デスクには家族の写真、つい立の壁には思い思いの好きなポスターなどを貼っていて、デスクに向かっているときはお互い顔を見合わせないようになっている。大部屋に部長、課長、係長、平社員が机を並べて働く日本の職場とは雰囲気が全然違う。だからと言って、皆がよそよそしいかと言ったら全く反対で、コーヒーマシンの前ではWeekendの話などで盛り上がっていたり、遠く日本から来た見ず知らずの私に対して、目があうと必ずニコっとする。

マーケティングスタッフと談笑するDan Barnhart

Danの面接が終わると、いよいよVPのBen Anixterの登場だ。緊張して待っていると、秘書がBenは今こちらに向かっているからコーヒーでも飲んで待っていなさいという。こちらは、緊張しながら飛行機の中で勉強したことをおさらいしていた。すると、ジョギングスーツに身を包んだ小柄な男が現れた。"悪い悪い、ちょっとばかし走ってきたもんだから。"と言いながら、私と向かい合った。それがBen Anixterだった。一通り質問に答えた後に、私は堰を切ったように飛行機の中で考えていたアピールをまくしたてた。するとBenが、"OK, you are hired. Congratulations !!"と言って握手を求めてきた。私がAMDに採用された瞬間だったが、あまりあっけないので呆けた顔をしていると"なんか、顔色が悪いな、時差ボケで寝てないんじゃないか?"と言って、秘書に"採用通知を用意しといて"と告げると、シャワー浴びなくっちゃと言ってさっさと行ってしまった。

その後、採用通知書を受け取るとDanが、"おめでとう、これからよろしく"と言って近くのレストランに昼食に誘われた。もう今はなくなっていると思うが、そのレストランの名前は今でも覚えている、"Arthur’s"といった(アメリカのレストランは大抵XXX'sという名前がついている)。近くのシリコンバレー企業の社交場のようなレストランで、その後に何度か訪れたが、結構有名な人が隣のテーブルに座っていたりすることもあった。あたりをきょろきょろ見ている私に向かって、"これが典型的なシリコンバレーのレストランの風景だよ。テーブルの上でまた新製品のアイディアが生まれたり、もしかすると新しい会社ができているかもしれない…。あそこに座っている2人はXXXのCEOとCFOだ、何を企んでいるんだろう"などと言って笑っていた。こうして、私の24年間に及ぶAMDでの勤務が始まったのである。私は30歳になろうとしていた。

安心した私は、帰りの飛行機ではビジネスクラスの旅を満喫した。

(次回は10月5日に掲載致します)

著者プロフィール

吉川明日論(よしかわあすろん)
1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Devices)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。その後も半導体業界で勤務したが、今年(2016年)還暦を迎え引退。現在はある大学に学士入学、人文科学の勉強にいそしむ。
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