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ライター:
根岸達朗根岸達朗

今日、私は「コブス」としか言いません

赤ちゃんは「バブ~」とか「ダァ~」のひとことで、お母さんに意志を伝えることができるわけですが、どうしてこれが大人になったらできなくなってしまうのか。いや、できないのではない。やらないだけなのだろう。そう思った私はとある実験を試みることにしました。たとえば丸一日「コブス」としか言わなかったとしたら……。



私には同居している彼女がいますが、もちろんこのことは秘密にしました。あらかじめ説明をして、変に理解を示されても、それは「コブス」という単語だけで意志を伝えるという、本来の趣旨からずれることに他ならないからです。

昨晩の私は、彼女に「おやすみ」を伝えて床についてからも、しばらくは眠れませんでした。明日は「コブス」しか言ってはいけないんだ……。そもそも「コブス」ってどういう意味なんだ……。よくわからないぞ……。自分で蒔いた種とはいえ、こんなに悩むくらいなら、編集部にネタを持ちかけなければよかったんじゃないのか……。くだらないことを書き過ぎて読者に嫌われてしまうんじゃないのか……。いろいろな不安が頭の中をかけめぐりました。そして私は羊の数を数えるように、コブスをひたすらに問答し、ハッと目を覚ますと、朝の目覚まし時計がジリジリと音を立てていたのであります。

「おはよー」

彼女はいつもの調子で、私に抑揚のない平坦な朝の挨拶をしました。そして私はこう返しました。

――コブス~

彼女の頭の上に「?」が見えました。なにを言っているんだこいつは、という顔をしています。

――コブス~

もう一度言ってみました。

「ああ、コブス横丁ね。どうしたの?」

彼女は私がコブス横丁でライターをしていることを知っているので、そこまでは勘づいたようです。ですが、この「どうしたの?」にどうやって対応したらいいのか、私にはさっぱりわかりませんでした。

――コブス、コブス、コブス……(今日はコブスとしか言ってはいけない日なんだよ)

「なんか気持ちわるいね……。取り憑かれてるみたい」

――コブス……(いや、そうじゃなくて)

彼女にはまったく伝わっていないようです。頭の上には「?」マークが10個くらい並んでいるように見えました。

「私、もう仕事行かなくちゃいけないからいくね。なんかよくわからないけど、いつも変なことばっかしてないで、たまにはちゃんとしてね」

――コブス……(はい、行ってらっしゃい……)

玄関の扉が閉まってから、私は考えました。コブスしか言えないのなら「筆談」、「ジェスチャー」という手もあるぞ……いや、それは本来の趣旨とずれてしまう、あくまでコブス一本押しでなければ……。

しばらく悩み、今日、家を出るのは危険であると判断した私は、彼女がふたたび帰ってくるまで、ただのひとことも発さず、悶々とした時を過ごしたのでした。

「ただいま~」

彼女が帰ってきたのは夜も11時を回ったころでした。

――コブス~(おかえり~)

彼女は明らかに怪訝な顔をしています。まだやってんのかよこいつは、という視線をびしびしと投げ掛けてきます。

「……私、もう疲れたから寝る。おやすみ……」

――コブス……(わかってほしい…)

翌朝、何事もなかったかのように朝の挨拶を投げかけると、彼女もまた何事もなかったかのような素振りで、いつもの平坦な「おはよー」を返してきました。一緒にパンを食べ、コーヒーを飲み、会社に出勤する彼女を玄関先まで見送って、「いってらっしゃい」を口に出して言ったとき、普通に話せるって、なんて幸せなことなのだろうと思ったのでした。空腹を耐え抜いた先にありついた食事のありがたみのような、厳しい禁欲生活からの解放の瞬間のような、私にとって昨日の体験はそれらのカタルシスを感じ入るにあまりあるものでしたが、もう二度とやらないと思います。なんでかは、察してください。

(根岸達朗/プレスラボ)

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