文明の起源で新しい成果がもたらされた。中米で栄えたマヤ文明の初期は、公共祭祀などの共同作業を通じて社会的な結束が進み、徐々に人々が移動生活から定住に移行していったことを、米アリゾナ大学の猪俣健(いのまた たけし)教授と茨城大学人文学部の青山和夫(あおやま かずお)教授らがグアテマラのセイバル遺跡の詳細な再発掘で明らかにした。文明の起源を探る重要なモデルになりそうだ。那須浩郎(なす ひろお)総合研究大学院大学助教、米延仁志(よねのぶ ひとし)鳴門教育大学准教授らの計7カ国の研究者が参加する大規模な国際共同研究で、3月23日付の米科学アカデミー紀要オンライン版に発表した。

写真. セイバル遺跡のマヤ文明初期の住居跡(撮影:青山和夫茨城大学教授)

セイバル遺跡はグアテマラを代表するマヤ文明の大都市遺跡。ジャングルの真っただ中の高さ約100mの丘陵にある。米ハーバード大学の調査団が1960年代に調査して、有名になった。しかし、この発掘は主に表層に限られ、西暦250年以降の古典期マヤ文明に焦点が当たり、紀元前1000年ごろにさかのぼるマヤ文明の起源や盛衰は謎として残った。今回の研究チームは約40年ぶりに2005年から、セイバル遺跡の発掘を再開し、10m以上まで深く広く掘って、公共祭祀などの大型建物や住居跡、土器などの資料を採取し、最新年代測定や植物学も駆使してマヤ文明初期の歴史に迫った。

その結果、紀元前1000年ごろのマヤ文明初期に大規模な広場や公共祭祀の建築物は現れたが、定住用の住居跡はわずかだった。焼き畑や狩猟をする集団は移動生活が主で、一時的に公共物建設に参加していた様子がうかがえた。その後、次第に定住するための住居が増え、紀元前300年ごろに定住が定着したことを確かめた。

文明の初期に関する学説では、「定住集団と非定住集団はそれぞれ別の共同体を形成し、定住の後に大規模な公共祭祀建築が建設された」といわれてきた。研究チームはセイバル遺跡の再発掘で、この従来の学説を覆した。狩猟採集民が定住する新しい生活様式は同時に起こらず、まず大規模な公共祭祀建築が建設され、定住性の度合いが異なる多様な集団が交流しながら、全員がやがて定住に移り、古代都市が形成された、という文明初期の発展の仕方が浮かび上がった。

マヤ文明の初期には、公共祭祀や公共物建設の共同作業で人々が結束を強め、社会的アイデンティティーを高めたことが重要な役割を果たしたことになる。マヤ文明は紀元前1000年ごろから栄え、中米で文字、暦、天文学を発達させた。16世紀のスペイン人の侵略で破壊されたが、現在も800万人を超える子孫たちが中米で現代マヤ文化を創造し続けている。

青山和夫教授は「セイバル遺跡を徹底的に発掘して、マヤ文明の起源と初期の発展をかなり解明できた。今回の成果の意義はマヤ文明にとどまらない。定住の前にできた巨大なモニュメントがトルコでも最近、発見されている。文明はすべての人々が定住して始まったのではなく、非定住も含めて多様な集団が共同作業しながら、定住の度合いを増して都市が形成されたというプロセスがより普遍的ではないか」と話している。