ソニー時代に、関取社長はVAIO事業の再生に取り組んだことがある。

もともとオーディオ事業を担当していた関取社長が、初めてVAIOの事業を担当したのが2003年のことだ。2002年度にソニーのPC事業の出荷台数は、初の前年割れという事態に陥った。

当時の資料をひも解けば、2003年1月に入った時点で、3月に年度末迎える2002年度の通期出荷計画を大幅に下方修正。国内出荷計画は180万台から130万台へと50万台減へと修正し、海外は260万台から180万台へとマイナス80万台の修正とした。結果としては、年間310万台の実績。ソニーのPC事業が初めて迎えた壁だったといえる。

国内におけるコンシューマ市場が低迷するという要素はあったものの、その当時のソニーマーケティングの幹部が、「発売から5年を経過し、初志を忘れた製品が相次いでいた」と、指摘していたのを思い出す。

また、海外事業の拡大に乗り出したものの、思うようにいかないといったことも低迷に拍車をかけた。

このとき、再生に取り組んだのが、関取社長であった。この再生プロジェクトは、社内では「@安曇野」と呼ばれた。

長野県安曇野市の長野ビジネスセンター前にある「VAIOの里」の碑

VAIO&Mobile事業本部の本拠地だった長野ビジネスセンター。現在はVAIO株式会社の拠点となっている(本稿の写真は上を含め、いずれもソニー時代のもの)

「安曇野では上流設計から開発を行う体制を持っていたものの、それを品川からコントロールする体制となっていた。だが、海外戦略に視野を広げていた品川本社のチームは、海外のODMを管理し、海外との折衝に時間の多くを割いていた。そこで、最先端モデルについては、安曇野側で上流から一体となって開発する体制を構築。企画、設計、開発、製造を統合した環境でオペレーションする体制をとった」――。

これが「@安曇野」の基本的な考え方だ。

長野ビジネスセンター全景

VAIO設計センターを安曇野に設置。品川勤務の設計担当者もここに参加。これにより、仕様や品質といったモノづくりにおいて、「最後の最後まで追い込んだ設計」ができるようになったという。この時、出張ベースで安曇野で仕事をしていた品川勤務の社員がウイークリーマンションなどを利用し長期滞在して、開発に携わるようになったという。

同時に取り組んだのが、VAIO Globalサプライチェーンセンターを安曇野に設置したことだ。「当時感じたのは、日本で成功した体験が、そのまま海外でも通用すると思っている点。これを是正しなければならない、という点だった」と関取社長は語る。

そこで、関取社長は、グローバルサプライチェーンを品川から管理するのではなく、安曇野を巻き込んだ生産現場と一体となった新たなオペレーション体制の構築にも取り組んだのだ。関取社長が持つ安曇野への信頼感はこのときに醸成されたものだといっていいだろう。

「安曇野の人たちの根性の座り方は生半可なものではない。生き残るためにはどうするのかということを真剣に考え、改革に取り組んできた」。

こうした取り組みの結果、ソニーのPC事業は改善。2003年度から再び出荷台数が上向いていった。

長野ビジネスセンター

関取社長は、2009年には、ネットワークプロダクツ&サービスグループの企画戦略部門長として、その傘下にあったVAIO&Mobile事業本部も管轄。このとき、2010年4月に、直接指揮を担当したわけではなかったが、安曇野への全PC組織統合といった動きを体験している。これは、2003年に取り組んだ「@安曇野」プロジェクトの発展系ともいえよう。

この組織統合の結果、登場した最初の製品が、「妥協しない究極のモバイルPC」として2011年8月に出荷されたVAIO Zシリーズだった。

2011年8月に出荷された"革新のモバイル"機、VAIO Zシリーズ

当時赤羽副社長は、VAIO&Mobile事業本部副本部長の立場で、次のように発言している。

「これまでにも、設計チームが安曇野に長期間出張して製品化したものはあったが、拠点の統合により、VAIO Zの製品化に携わるすべての社員が、開発の上流段階から着手することができるようになった。設計段階から、生産部門のスタッフも一緒に会議に参加し、生産工程で使用する治具の開発まで、製品設計と同時進行で進められた。ここまでの深い連携は、長期出張の取り組みでは実現できないものであり、安曇野に統合したことによって成しえたもの。いままでにない形状、いままでにない部品、いままでにない構造、いままでにない製造方法によって、いままでにない新たなVAIO Zは生まれた」。

こうした構造改革を陰で支えたのが、関取社長だったわけだ。