フィギュアスケートのルールは、毎年のように細かく変わる

スポーツでは時折、ルールが改正されることがある。ゲームの構造そのものに影響を及ぼすレベルのものもあれば、本当に細かな部分のものもある。そして、選手たちはその改正されたルールにあらがうことができない。

2年ごとに大きくルールを改正

改正にあたっては、さまざまな背景が存在する。事故のリスクをなるべく減らして選手の安全性を高めることを意図していたり、より公平性を追求するという目的があったりする。あるいは、テレビ中継のしやすさ、見栄えといったビジネス面を考慮して変えられるケースも決して珍しいことではない。

フィギュアスケートの場合は、2年ごとになされる大きなルール改正を含め、毎年、細かな"調整"がなされる。他の競技と比べても多い方であるし、改正がもたらす影響の度合いも決して小さなものではない。

近年で最も大きかったルール改正は、2002年のソルトレイクシティ五輪の後に「ISUジャッジングシステム」へと舵(かじ)が切られたことだろう。2003-2004年シーズンにグランプリシリーズなどで試験的に導入され、その次のシーズンから正式に用いられるようになったものだ。種目ごとに技術点「構成点」などを算出する同システムは、現在も変わることなく採点のベースとなっている。

その上で、採点をはじめ、さまざまな点で手が加えられてきた。2014-2015年のシーズンへ向けても改正があった。そして、それは多岐にわたる。

「ルッツとフリップのエッジエラーを厳格にする」

「一度は廃止された『!』(軽度のエラー)を再び導入する」

「重度のエラーを表す『e』が付くと、各技の基礎点の70%しか与えられない」

「重度のエラーとアンダーローテーションが重なると、基礎点の50%しか与えられない」

「フリースケーティングでは、いかなるダブルジャンプも2回まで」

などがそうだ。ジャンプばかりではない。ステップやスピンなどでも変わったところはたくさんある。

一時期、4回転が少なくなった理由

そしてもちろん、ルールの改正は選手に影響を及ぼす。

例えば、2010年のバンクーバー五輪を迎えるまでの間と大会期間中、男子で4回転ジャンプに挑戦する選手が減少したことの是非が議論となった。当時、4回転ジャンパーが少なくなった理由を、プロフィギュアスケーターや解説者などで幅広く活躍する本田武史氏が、後にこう分析していた。

「バンクーバーの頃は、『4回転ジャンプがなくても勝てる』と(の意識があったと)いうより、4回転に取り組む時間が(選手たちには)なかったと思うんです。ルールが変わり、スピンやステップのレベルをどう取っていいか分からない状態が続き、対応するのに精いっぱいでした」。ルール改正が影響した事例の一つであったと言える。

大小を問わずなされてきた数々の改正は、フィギュアスケートの進化やレベル向上を意図してのことではあるかもしれない。今回のルッツとフリップの厳格化も、正しく跳べる選手からすれば当然のことだろう。ただ、改正のすべてが、意図した通りの「フィギュアスケートの進化へとつながる改正」と言ってよいものだったかどうかは別の話だ。

頻繁な改正は、ISUサイドの試行錯誤ととらえることもできる。そもそも、ルールがどのようにあろうと、そのもとで判断するジャッジの「目」こそが、最も問われるものであるかもしれない。

平昌五輪へ向けて、どのような流れが生まれるか

いずれにせよ、少なくとも選手は改正に対応せざるを得ず、対処を図ってきた。だから今回のルール改正に対しても、選手は対策を考えて、新しいシーズンに臨んでいくことになる。

僅差の勝負の場面となれば、エッジエラーの厳格化などは選手の採点に大きく関わってくることになる。プログラムをどう組み立てていくのか、対応が問われることになるのではないか。仮に克服しようと試みても、長年、身につけてきたものだけに、修正は決して容易なことではない。浅田真央が苦しみ続けたように。あるいは村上佳菜子が苦しんでいるように。

ソルトレイクシティ五輪から、トリノ、バンクーバー、そして今年のソチと、そのときどきのルール改正にまつわる流れがあったように、2018年の平昌五輪へ向けても、新たな流れは起こってくるだろう。

ルールと付き合い、あるいは戦いながら、選手たちは自身の目指す理想像へと進んでいく。そして、その付き合い方や戦い方は2年ごとに大きく変わる可能性を秘めている。フィギュアスケート選手たちは、己やライバルたちと戦う以前に、強大な相手と向き合わねばならないのだ。

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筆者プロフィール : 松原孝臣(まつばら たかおみ)

1967年12月30日、東京都生まれ。早稲田大学卒業後、出版社勤務を経てフリーライターに。その後スポーツ総合誌「Number」の編集に10年携わった後再びフリーとなり、スポーツを中心に取材・執筆を続ける。オリンピックは、夏は'04年アテネ、'08年北京、'12年ロンドン、冬は'02年ソルトレイクシティ、'06年トリノ、'10年バンクーバー、'14年ソチと現地で取材にあたる。著書に『フライングガールズ-高梨沙羅と女子ジャンプの挑戦-』『高齢者は社会資源だ』など。