理化学研究所の大型放射光施設「SPring-8」を運用する高輝度光科学研究センター(JASRI)は8月26日、同施設の通常のものより1000倍明るいビームライン「BL40XU」のX線を羽ばたき中の昆虫の胸部に当て、毎秒5000コマという超高速X線ムービーを記録することで、昆虫の速い羽ばたきを可能にする筋肉の分子機構を明らかにすることに成功したと発表した。

成果は、JASRI 利用研究促進部門の岩本裕之主幹研究員らの研究チームによるもの。研究の詳細な内容は、8月22日付けで米科学誌「Science」に掲載された。

ハチ、ハエ、蚊、甲虫などの進化した昆虫は非常に速く羽ばたくことができ、蚊の場合は1秒間に500回も羽ばたくことが可能だ。脊椎動物の筋肉は1回の神経指令により1回収縮するが、これと同じ方法では1秒間に500回も羽ばたくのは不可能である。そこで、進化した昆虫では羽を動かす「間接飛翔筋」が、羽を直接動かすのではなく胸部の外骨格を変形させることで、収縮したまま自励振動を行うことによって間接的に羽を動かし、高い羽ばたき周波数を実現している仕組みだ。

画像1が、その仕組みを解説したものだ。胸部には2種の拮抗する飛翔筋があり、前後方向に走る「DLM(Dorsal Longitudinal Muscle)」と、背腹方向に走る「DVM(Dorso-Ventral Muscle)」である。これらは片方が縮むと、胸部外骨格の変形を介してもう片方が引き伸ばされる配置になっている。それにより、引き伸ばされた方は「伸張による活性化」により相手を引っ張り返すので、お互いを引っ張り返し合って振動を持続することができるというわけだ。

つまり、DLMとDVMは互いに引き伸ばし合うことから連続して収縮が起こり、羽ばたきを引き起こす仕組みで、これは筋肉自身のもっている性質を使っているので、振動ごとに神経が指令を送る必要はないのである。

画像1。昆虫飛翔筋の動作を示す模式図

この「伸張による活性化」はほかの筋肉にも見られる現象だが、昆虫飛翔筋には特に顕著に見られるという。その顕著さの故に古くから研究者の関心を集めてきたが、その分子機構は長年の研究にも関わらず不明のままだった。最近になって、昆虫には特殊な飛翔筋特異的タンパク質(昆虫の体内にある多数の筋肉の内で、飛翔筋にしか発現しない)が多く発現していることが解明され、これらの飛翔筋特異的タンパク質が「伸張による活性化」を起こすという説がかなり有力視されている状況である。

そこで研究チームは今回、SPring-8のビームラインBL40XUのX線を使い、羽ばたいているマルハナバチの胸部に当てて生じるX線回折像を世界最高速の毎秒5000コマの速さで記録。マルハナバチの羽ばたきは毎秒120回(羽ばたき1回が8ミリ秒)だから、羽ばたき1回を40コマの高精度で記録することに成功し、精密な解析が可能になったというわけだ。これまで、米国の放射光施設「APS」にて、羽ばたいているショウジョウバエの飛翔筋からX線回折像を記録した例はあったが、この時は羽ばたき1回につき8コマの撮影速度で、2つの拮抗飛翔筋の内DLMだけの記録だった。

今回の実験の特徴は、2つの拮抗飛翔筋が重なるところを狙ってX線を当てることで、2つの飛翔筋からの回折像を同時に記録した点だという。これによって、2つの飛翔筋がどういうタイミングで作動しているかが明らかになったのである。2つの飛翔筋は実際には画像1で描かれているように直交してはおらず、約60度の角度をなしているが、動作は完全に逆位相(ほぼ正確に180度ずれている)ことが確認された。

また毎秒5000コマの回折像撮影使用されたのが、最新式の高速CMOSビデオカメラ(1024x1024ピクセル)だ。ポイントはこのビデオカメラを2台同時に使ったことだという(画像2)。1台はX線回折像撮影に使い、もう1台はマルハナバチの羽ばたきそのものの記録に使われた。マルハナバチを撮影したムービーの1コマが画像3である。2台のカメラはマスタースレーブ方式で接続されているので完全な同期がとれ、回折像と羽の位置を1対1に対応させることができるというわけだ。

画像2(左):実験のセットアップ。2台のカメラをマスタースレーブ接続し、X線回折像とハチの像を同時記録する。画像3(右):ハチの像を記録したムービーの1コマ。ソフトウェアにより羽の位置を認識している(黄色の丸)。Science誌より改変

以上の測定により記録されたX線ムービーの1コマが画像4である(Scienceのサイトには論文のサプリメント(補完)として、実際のムービーが公開されている)。これには2つの飛翔筋からの回折像が重なって記録されているが、この図ではDLMの向きが縦になるように角度を回転させて表示している上に、実験に用いたすべてのハチのデータが加算されている。青枠で囲った部分(すべてDLM由来)は拡大して表示。

画像4。X線回折像を記録したムービーの1コマ。Science誌より改変

多数のスポット(反射)が見えるが、それぞれは筋肉内のタンパク分子の構造に関する情報を含んだものだそうだ。実際のムービーではこれらのスポットが明るくなったり暗くなったりしており、これは各タンパク分子の構造が変化していることを表すという。また各スポットの位置を精密に測ることで、筋肉の長さや発生張力が羽ばたきにつれてどう変化しているかも知ることができる。例えば長さ変化はほぼ正確に正弦波振動だったが、張力の変化はかなり歪んでいることが確認された。

なお、今回得られた情報でとりわけ重要なのが、画像4の中で「111」と示されたスポットで、これが「伸張による活性化」の起こる直前に明るくなることがわかった。すなわちこれが「伸張による活性化」の引き金になる構造変化を反映している可能性が高いという。

回折学的な検討の結果、この信号は、収縮タンパクの「ミオシン」がもう1つの収縮タンパクである「アクチン」に結合したままねじれるような変形をすると説明できることが判明(画像5)。すなわち、アクチンに結合して力発生の準備段階にあるミオシンが伸張により変形を受けることで力発生を開始することが「伸張による活性化」の分子機構であると推定されるとした。

画像5は、X線反射強度(画像4の111スポット)の変化を説明するモデル。筋肉の横断面を拡大したもので、青色の不定形の物体がミオシン分子、緑の不定形の物体がアクチン分子を表している。ミオシンが左図から右図へとねじれるような動きをすると、「伸張による活性化」に先立つ111スポットの強度変化を説明できるという。

画像5。X線反射強度(画像4の111スポット)の変化を説明するモデル。Science誌より改変

疲労して張力の低下した脊椎動物の骨格筋を引き伸ばすと非常に大きな力を出して抵抗するが、この「伸張による活性化」も同様の分子機構で起こっているという報告が1995年になされている。つまり昆虫飛翔筋と脊椎動物骨格筋は同様の分子機構によって引っ張りによる張力増強を行っているというわけだ。昆虫飛翔筋は、飛翔筋特異的なタンパク質を発現するのではなく、脊椎動物にもある一般的な筋肉の性質を利用することによって「伸張による活性化」を実現したと考えられるという。

また、前述したように「伸張による活性化」は程度の差こそあれ種々の筋肉に広く見られる現象で、特に心筋ではその機能に対して重要な役割を担っていると考えられている。昆虫飛翔筋に顕著に見られる「伸張による活性化」が特殊な筋肉の特殊な性質ならば、その研究の意義も限られたものになるだろうが、今回の研究で脊椎動物の筋肉との共通性が明らかになったことで、昆虫飛翔筋は脊椎動物の骨格筋や心筋の働きをよりよく理解するためのモデル材料として役立っていくことと思われるとした。

さらに応用的な面として、進化した昆虫飛翔筋は自励振動によって中枢を個々の振動を制御する負担から解放するというデザインで、これにより昆虫は全体を小型化して生息環境を広げることができたと考えられるという。人間がロボットなどの機器を開発する際にも、同様のデザインを用いて末端のアクチュエータの制御をアクチュエータ自身に行わせることでCPUの負担を減らし、機器の小型化につなげることができると考えられるとしている。