名古屋人には、名古屋県でないわだかまりを抱えている人もいる!?

筆者の生まれは愛知県の地方都市。「生まれはどこ?」と他県の人に聞かれると「名古屋です」と答えるようにしている。なぜなら名古屋といえば 「ああ名古屋ね」と思ってくれるが、愛知と答えると「えっと愛知ってどこだっけ」と言われることが少なからずあるからだ。

行政的な意味合いでは当然「愛知県>名古屋市」だ。しかし、世間的な知名度は確実に「愛知<名古屋」となっている。「もう名古屋県でいいんじゃないか」という若い人の声すらチラホラと聞こえてくるが、実は過去に実際に「名古屋県」という県が存在したということ、みなさんはご存知だったろうか?

わずか1年足らずで消えた「名古屋県」

「名古屋県は、明治4年(1871)7月から明治5年(1872)4月まで実在していた県なんです」。そう教えてくれたのは名古屋市博物館学芸室の種田祐司さん。わずか1年足らずで消滅した「名古屋県」、その数奇な運命とは?

大ざっぱにいうと、現在の名古屋市は江戸時代の尾張藩の領地だ。言わずと知れた(と名古屋人が勝手に思っている)徳川御三家の筆頭であり、大名ヒエラルキーのトップに君臨する存在である。

「名古屋県」時代の存在を知っている人は少ない(写真は名古屋城)

江戸時代が終焉(しゅうえん)を迎え明治維新に突入すると「廃藩置県」が行われ、江戸時代の「藩」がいまの「県」になった。このように学校で教えられた人も多いだろう。しかし、実際はその前に「版籍奉還」というものが行われている。

これは「大名の持ち物だった領地と領民を天皇に返す」という名目のもの。いわば廃藩置県の前のワンクッション。実は「尾張藩」とは大名の領地を指す通名で、正式名は存在しなかったそうだ。それを、版籍奉還を機に「領地に正式名を付けよう」ということになり、「城下町のあるところは、それが藩の名前になったそうです」と種田さん。

もちろん、尾張藩は名古屋城下なので、明治2年(1869)に「名古屋藩」が誕生したというわけだ。そしてその2年後に廃藩置県があり、明治4年7月14日に名古屋藩がスライドして「名古屋県」となった。しかし、明治5年4月2日、名古屋県は「愛知県」と改称されてしまう。つまり、わずか9カ月で日本から名古屋県は消滅してしまったのだ。

わずか9カ月間で日本から消滅した「名古屋県」だった(写真は現在の名古屋景観)

《人心を一新》して「愛知県」へ

なんと儚(はかな)い運命……。この改称の経緯について、「名古屋市史」などいろんな資料を読んでも理由についてほとんど触れていない。しかし何かウラがあるはずだ。それを種田さんに質問すると、「はっきりしない部分はありますが、どうも《人心を一新する》という意味があったようです」と言う。

《人心を一新する》!? なんだか奥歯に何か挟まったような表現……。「あくまで俗説ですが」と前置きして、種田さんは言葉を継ぐ。「このとき愛知を始め、島根や愛媛なども続々と改称しているんです。共通しているのは、みな徳川家の身内や代々の臣下である、譜代大名の家柄だったということです」。

徳川幕府を倒して成立した明治新政府は、薩長などが中心勢力だ。今までの県名を使うのは新政府の覚えがよろしくない。だから、《人心を一新する》という名目で県名を変えたということらしい。

現存する文書上では自発的に名古屋県が変えたとなっているそうだが、真相は藪(やぶ)の中。どちらにしろ、明治政府に忠誠をアピールするという狙いがあったのではないか。そう種田さんは推測している。

その後、愛知県はお隣の額田県(三河地方)を合併していまの愛知県のエリアが成立し、現在に至る。それにしてももしあの時、新政府に配慮していなかったら(待望の?)名古屋県が存在していた可能性は十二分にあったのだ。そして筆者も「どこの生まれ?」と聞かれて、「ふふん。名古屋(県)じゃ!」そう答えることができたってわけである。