近年、夫婦間の問題として、すっかり認知度を上げた言葉のひとつにドメスティックバイオレンス(以下、DV)なるものがある。ご存知の通り、同居関係にある配偶者や内縁関係の間で起こる家庭内暴力のことだ。最近はDVの概念も広がったため、同居の有無を問わず、元夫婦や恋人など近親者間に起こる暴力全般を指す場合もあるという。

確かに、夫が妻に対して暴力を振るうという光景はいただけない。一般的に、フィジカルにおいては女性よりも男性のほうが圧倒的に強いのだから、男性が女性を殴るという行為は、これはもう弱い者イジメと言わざるをえないだろう。大人が子供を虐待する、あるいは人間が小動物を虐待するということと、構図的には同じである。

夫は有名企業に務めるエリートサラリーマン、年収は1000万円の大台を突破

結婚して5年になるFさん夫婦の場合もそうだ。

38歳になる夫は有名企業に務めるエリートサラリーマンで、年収は1000万円の大台を突破。妻は34歳の専業主婦で、3歳の息子と1歳の娘の育児に精を出している。夫妻どちらも社交的で礼儀正しく、近所の評判もすこぶる良好、いわゆる幸せな家庭である。

しかし、そんなFさん夫婦であっても、実は人知れずDVの悩みを抱えているというからわからない。一見すると、妻はいつも美しく着飾っており、笑顔も絶やさない素敵な30代女性であるため、家庭の中では夫に暴力を振るわれているなどという凄惨な光景が微塵も想像できない。彼女にはいわゆる陰が見当たらないのだ。

もっとも、真相を明かすと、それもそのはずである。Fさん夫婦におけるDVの被害者は、この妻ではなく、エリートサラリーマンの夫だからだ。すなわち、妻が夫に対して暴力を振るうという、世間一般のDVのイメージとは逆の関係なのだ。

専業主婦になり退屈になった妻、鬱憤を夫にぶつけるように

事の発端は、結婚して1年が経ち、妻の第一子妊娠が発覚して以降である。妊娠発覚直後は夫妻ともども大喜びで、未来の明るい家庭を思い描きながら、互いに心を躍らせていたという。やがて生まれてくる子供のために、夫はこれまで以上に仕事に精を出すようになり、妻は妊娠を機にそれまで働いていた職場を辞め、専業主婦になった。

ところが、ほどなくして妻の様子が少しずつ変わってきた。それまでの妻はどちらかというとアクティブなタイプで、OL時代は仕事だけでなく、交友においてもバイタリティに溢れた女性だっただけに、一日中家事に勤しみながら胎教を考える日々にストレスを感じだした。要するに、日々が退屈でつまらなくなったのである。

一方、夫は仕事が忙しい時期だったため、それに伴い夜の付き合いも多くなり、必然的に家で食事をする機会が減少。そうなると妻のストレスはますます顕著になっていくわけで、深夜遅くに帰ってきた夫に対して、なにかと八つ当たりを繰り返すようになった。

かくして、夫婦喧嘩が急増した。といっても、夫がなにか悪いことをして、それに対して妻が怒るという流れではない。日々のストレスを溜めに溜めた妻が、その鬱憤を夫にぶつけるだけの場合がほとんどだ。ある日の夫は、仕事で夜遅く帰宅しただけなのに、玄関でいきなり妻から「遅いんだよ、バーカ!」と怒鳴られたという。

猫と同じ理屈、長く強固な爪による「引っかき攻撃」

これだけならまだしも、いつからか妻が暴力を振るうようになったからたまらない。それも最初は軽いものだったが、夫が一切抵抗しないのをいいことに、どんどん激しくなっていった。中でも夫にとって一番つらいのは、殴る蹴るといった打撃系の定番暴力ではなく、女性特有の長く強固な爪による「引っかき攻撃」だという。

なるほど、猫と同じ理屈だ。肉体的に非力な動物が、自分よりも強く大きな動物を攻撃しようと思ったら、そもそも力に頼ろうとせず、なにか違う武器を利用して相手にダメージを与えたほうが効果的だ。それがすなわち、爪なのだろう。

また、男性から女性へのDVと違って、被害者が男性の場合、妻からのDVをなかなか周囲に明かせないという人も多い。その夫も人知れず妻の引っかき攻撃に悩み、背中には無数の引っかき傷があるというのに、それを会社の同僚や上司などには言えず、一人で抱え込んでいるという。これは男性特有の傾向なのかもしれないが、男性は社会的・世間的なメンツを重んじるところがあるため、恥をかきたくないという心理が働くわけだ。

地味ながらも激痛と傷跡を伴う引っかき攻撃、夫の悩みはますます孤独化

さらに、その夫は非常に紳士的で優しい男性である。だからこそ、男性が女性に手を上げることをタブー視しており、そのため妻からのDVに対して正当防衛の名のもとに同じ暴力で応戦することは絶対にしない。つまり、ひたすら我慢しているのである。

しかし、夫が我慢していると、妻はだんだん感覚が麻痺してきたのか、あるいは調子に乗ってきたのか、ますますDVが激化。殴る蹴るの暴行と違って、地味ながらも激痛と傷跡を伴う引っかき攻撃は大きな音が出ないため、まだ幼い息子と娘も、父の苦しみにまったく気づかない。こうして、夫の悩みはますます孤独化していくのだ。

世の中には夫から妻へのDVもある一方で、妻から夫へのDVもある。それにもかかわらず、一般的にはDVといえば「夫から妻への暴力」というイメージがあるのは、夫が被害者の場合は、その悩みが孤独化し、世間にばれにくいからなのかもしれない。

<作者プロフィール>
山田隆道(やまだ たかみち)
小説家・エッセイスト。1976年大阪府出身。早稲田大学卒業。『神童チェリー』『雑草女に敵なし!』『SimpleHeart』『芸能人に学ぶビジネス力』など著書多数。中でも『雑草女に敵なし!』はコミカライズもされた。また、最新刊の長編小説『虎がにじんだ夕暮れ』(PHP研究所)が、2012年10月25日に発売された。各種番組などのコメンテーター・MCとしても活動しており、私生活では愛妻・チーと愛犬・ポンポン丸と暮らすマイペースで偏屈な亭主。

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