理化学研究所(理研)は9月28日、世界的に論争が続いていた水の表面構造の謎を分子レベルで解明したことを発表した。表面・界面に存在する分子を選択的に計測できる先端の分光計測法と新モデルによる「分子動力学シミュレーション」を用いて、長年の論争に決着をつけた形だ。同研究所田原分子分光研究室の二本柳聡史研究員と山口祥一専任研究員、田原太平主任研究員らによる実験と、東北大学大学院理学研究科化学専攻の石山達也助教と森田明弘教授らによる理論計算を組み合わせた共同研究による研究で、成果は米学術誌「Journal of The American Chemical Society」に近日掲載予定。

水は生命に欠かせないものであり、最も身近な物質の1つでありながら、その物性は非常に特異であることはよく知られている事実である。水の内部では、隣り合う水分子が最大4つまで共有結合の10分の1程度の結びつきで「水素結合」で強い相互作用のネットワークを形成することで、水全体を安定化させている仕組みだ。

しかし、その一方で水の表面に存在する分子は自分より上に分子が存在しないため、ネットワーク構造が切断されている(画像1)。このネットワークの切断による不安定化を解消するため、表面は何らかの特徴的な構造が形成されるものと推測されてきたが、技術が発達した現在でも水界面の性質を調べることは容易ではなかった。

画像1。分子動力学シミュレーションから得られたある瞬間の水表面の分子構造。水分子は、四面体の頂点の向きに4つの水素結合を作ることができるが、界面では4つ同時に作ることは不可能であり、水素結合可能な部位(手)が1つ以上あまることになる。実験と理論計算の結果から、表面にある分子同士の間に非常に強い水素結合が見つかった。なお、赤は酸素原子、緑は重水素原子、白は軽水素原子

特に水分子がどのように配列され、つながっているのかというミクロな構造についてはほとんど分かっていないのが現状である。その理由としては、水の界面領域は非常に薄くて、水分子がわずか1、2層分しかないため、水全体から分離して調査する方法が限定されていたからだ。

界面の水の分子構造を調べる唯一の実験方法が、「和周波発生分光法」と呼ばれる非線形分光計測の一種だ。どのようなものかというと、まず周波数Aのレーザー光を可視光、Bのレーザー光を赤外光とし、和の周波数(A+B)を検出する。すると、ほとんどの物質の内部では周波数がゼロになる性質があるため、物質の界面だけを選択的に調べられるという仕組みである。同方法では、液体内部にある圧倒的多数の水分子を「無視して」、界面に存在する水分子だけの情報を得ることが可能という、これ以上ないのではないかというほど適した方法である。

過去に同方法を用いて行われた実験によれば、表面の水分子の間に何らかの強い相互作用が存在していることが示唆される結果が得られた。この強い相互作用を氷の構造に結びつけて「界面の水は氷によく似た構造を持つ」というモデルも提案されている。「氷的な水」(ice-like water)というユニークな命名も功を奏し、このモデルは瞬く間に世の中に広まった。

しかしその一方で、この構造の安定性が理論計算や熱力学的考察と相容れないため、水の表面が具体的にどういった構造で存在するかで、さまざまな仮説が存在しているというわけである。

研究グループでは、光の位相を同時に測定する完走測定を和周波分光法に組み合わせた新技術「ヘテロダイン検出振動和周波発生分光法」(画像2)を開発。従来の方式では「ホモダイン検出」と呼ばれる方式で、2次非線形感受率の絶対値の2乗しか得られなかった。しかし、今回の新手法では、スペクトルとともに光の位相を決定することが可能となる。それにより、分子を選択的に計測できるようになり、界面の分子構造を詳細に調べられるようになったというわけだ。

画像2。ヘテロダイン検出振動和周波発生分光装置。可視光(緑)と赤外光(赤)のレーザー光を同時に試料表面に照射すると和周波光(青、ESFG)が発生する。これらの3つの光を凹面鏡で集めてGaAsの結晶に集光し、可視光と赤外光からふたつ目の和周波光(ELO)を作り出す。このとき、1つ目の和周波光(ESFG)はシリカ板を通過するため到着時間が遅れる。時間差のついた2つの和周波光は分光器内で干渉し、干渉パターン(周期構造)が測定される。このパターンを解析すると光の位相情報を得ることができ、より詳細に界面分子の挙動が理解できるという仕組みだ

まずは、分子内の相互作用を取り除くために75%の重水希釈した水を用いて表面の「振動スペクトル」を測定し、過去の実験で観測された強い水素結合さ存在することを確かめた。振動スペクトルとは、分子がどのような赤外光の波長に応答するかを示すグラフだ。分子の赤外光応答は、分子が伸縮を繰り返す運動=振動に対応しているため、振動スペクトルと呼ばれている。分子の振動数は、その分子の状態や周囲の環境に対して鋭敏に変化するため、詳細な分子情報をえられるというわけだ。

同時に、新しい水分子の相互作用モデルに基づく高度な分子動力学シミュレーションを用いて、水表面の分子構造と振動スペクトルを計算。その結果得られた振動スペクトルは、実験で得たスペクトルとほぼ完全に一致し、シミュレーションに用いたモデルが正しいことが実証されたという次第だ(画像3)。

画像3。実験(青)および理論計算(赤)で得た界面の水の振動スペクトル。2次非線形感受率の虚部のスペクトル。光の位相が決定されるとスペクトルを実部と虚部に分けることができる。このうち虚部が直接的に界面分子の振動スペクトルに対応している。実験と計算から得た虚部のスペクトルはほとんど一致。3200cm-1付近に見られる正のバンドは、表面にある分子同士の間に働く非常に強い水素結合に対応するもの。3400cm-1付近の負のバンドは、普通の水素結合に対応する

シミュレーションの結果、水表面に存在する強い水素結合は氷構造とは無関係であることが判明。水の表面はかつて提唱された氷のような秩序構造ではなく、活発に運動している乱雑な構造であることが確認されたのである。さらに、水表面には内部より強い水素結合で結ばれた水分子のペアが存在することも判明したという次第だ。

今回の結果は、水に関する研究に画期的な新しい知見を与えると同時に、新手法が界面の研究において非常に有効であることも証明した。人の身の回りにはさまざまな水界面が存在し、それぞれ重要な化学反応の場となっている。例えば、微少な水滴と大気の界面は大気環境化学、油汚れと水の界面は洗剤の化学、人工血管と血液の界面は再生医療科学にとって重要な反応場であり、さらに人の身体も水と細胞膜の界面を積み重ねたものと捉えることも可能だ。

界面の水の性質を理解することは、こうしたさまざまな界面の化学を理解する上で本質的な課題だ。今回の研究によって、汽水界面における水素面構造の理解が深まったことで、そのほかの水界面における基礎から応用に至る幅広い分野に新しい指針を与えられると期待されている。