理化学研究所(理研)および富山大学による研究チームは、走査型トンネル顕微鏡(STM)によって誘起される分子の運動・反応の様子を予測する理論を整備し、固体表面上の分子1つ1つの性質を示す「分子の指紋」を調べる手法を確立したことを発表した。

Siを活用したデバイスにに代わる次世代デバイスの1つとして、単一分子を構成要素として用いる「分子ナノデバイス」が期待されているが、分子ナノデバイスを構築するためには、分子1つ1つを「見る」、「動かす」、「組み立てる」ことが必要となる。個々の分子を"見る"ための装置としてはSTMがあるが、STMは、nmスケールまで近付けたSTM探針と試料表面の間に電圧をかけた時に流れるトンネル電流が、2つの物体の間の距離に依存することに由来しているため、分子を凹凸として見ることしかできず、どんな分子であるかを判別する「化学分析」はできないという課題があった。そのため、STMを応用して分子1つ1つを化学分析する手法の開発が求めれられていた。

分子それぞれには、「分子の指紋」と呼ばれる固有な分子振動のエネルギーがあるため、個々の分子の振動エネルギーを計測する「振動分光法」が実現すれば、計測対象の化学分析が可能となる。STMは、固体表面上に吸着した分子に対して一定のエネルギーを持った電子を注入し、分子1個の振動を励起できるが、それにより動いてしまう不安定な分子に対しては、適用できる計測手法がなかった。

研究チームは、この「振動励起によって動いてしまう」ことを逆手にとり、分子の動きの傾向から分子の振動エネルギーを読み取る新たな振動分光手法「アクションスペクトル測定」の可能性を実験的に検討してきた。同手法は、注入する電子のエネルギーを大きくしながら分子の運動・反応の速度を計測すると、振動エネルギーと等しくなったときに反応速度が上昇することを利用しているが、同手法を一般的に使える振動分光手法として確立するためには、「反応速度のゆるやかな上昇から、振動に対応するエネルギーをどう正確に読み取るか」および「実験上必然的に含まれる大きなノイズの中から、いかに分子振動によるシグナルを見分けるか」という2つの課題を解決する必要があった。

今回、研究チームでは、分子の運動・反応の速度を反映した一般的な式を理論的に構築、同式を応用した実験データの解析手法を開発することで、上記2つの課題を解決、アクションスペクトル測定を実用的な単一分子振動分光手法として確立することに取り組んだ。

最初に研究チームは反応速度の定式化として、任意のエネルギーを持ったトンネル電子とSTMの探針から固体表面上の吸着分子に注入した際の分子の反応速度(分子の運動の場合は運動速度)を、反応速度論の考え方を用い定式化を実施。特定の分子振動が一段階励起された状態からの反応速度の式を拡張し、特定の振動が2段階以上励起されている状態からの反応速度や、複数の分子振動が励起されうる場合の反応速度なども表現可能な汎用的な反応速度の式を構築した。また、分子振動の寿命などから振動エネルギーが有限の幅を持つことも簡単な近似を用いて表現したという。

分子振動の励起と反応速度の対応関係の模式図。左図は、横軸に分子を構成する原子の原子間距離(r)、縦軸に分子の内部エネルギー(E)をとった分子振動を示す模式図。中央図は、横軸にトンネル電子のエネルギー(V)、縦軸に規格化した反応速度の対数(logY)をとった反応速度を示す模式図。点線の位置を境に反応速度が大きくなっており、この位置が振動エネルギーに対応する。今回の研究では、以下の場合のすべての組み合わせにおける反応速度を1つの式で表現できるようにパラメータが設定された。 (a) トンネル電子(e-)が特定の分子振動を一段階励起した結果起こる反応の場合。分子振動に対応するエネルギー(Ω1)を境に反応速度が大きくなる (b) トンネル電子が特定の分子振動を2段階励起した結果起こる反応の場合。振動の2段階励起にはトンネル電子が2個必要である。一段階励起した場合と同様、分子振動に対応するエネルギー(Ω1)を境に反応速度が大きくなる。ただし、大きくなる様子は一段階励起した場合とは異なる (c) トンネル電子が複数の分子振動を励起でき、それぞれが同じ反応を引き起こす場合。トンネル電子のエネルギーによって励起できる分子振動が異なる。それぞれの分子振動が励起した場合の反応速度(中央図)を足したものが、実験で観測される見かけの反応速度(右図)となり、それぞれの分子振動に対応するエネルギー(Ω2、Ω3)で反応速度の上昇が観測される

次に研究チームは、STMで測定したアクションスペクトルに対して、構築した反応速度の式をカーブフィッティングすることで、実験データを解析する手法を確立した。最適なカーブフィッティングの曲線が決まると、フィッティングパラメータである「分子の振動エネルギー」「1回の反応に必要なトンネル電子の数」「反応速度定数」「分子振動のエネルギー幅」の最適値が決まり、これら4つの物理量を算出することができるようになる。実際にPd表面上に吸着したCO分子の拡散運動とcis-2-ブテンの回転運動のスペクトルが、構築した反応速度の式によって再現されることも確認している。

Pd(110)表面上のCO分子の拡散運動のアクションスペクトル。(a)は拡散運動前後のSTM像。白い輝点で示したCO分子が移動していることが分かる。(b)から(d)は実験データにカーブフィッティングを用いた解析法を適用した結果。縦軸の1電子あたりの反応確率、横軸のサンプル電圧はそれぞれ、反応速度とトンネル電子のエネルギーに相当する。黒い曲線が実験データをうまく再現する最適なフィッティング曲線。ほかの曲線はそれぞれ、(b)振動エネルギー(Ω)、(c)速度定数(K)、(d)振動のエネルギー幅(γ)、の3つのフィッティングパラメータを変化させたときの、曲線の形状の応答をシミュレーションしたもの。それぞれ、応答の仕方が異なることが見て取れる。これは、最適なフィッティング曲線を与えるパラメータの組がただ1つ決まることを示している

Pd(110)表面上のcis-2-ブテン分子の回転運動のアクションスペクトル。(a)は回転運動前後のcis-2-ブテン分子のSTM像と吸着構造の模式図。ひょうたん型の白い輝点がcis-2-ブテン分子。STM像では、やや高くなっている末端のメチル基が、最も明るく見えている。格子の交わる点が基板のPdの原子位置を示している。赤丸で示したPd原子を中心として、cis-2-ブテン分子が回転している様子が分かる。(b)および(c)は回転運動のアクションスペクトルの実験データと、カーブフィッティングの結果。(b)はcis-2-ブテン、(c)はcis-2-ブテンの水素を重水素(D体)で置換した分子のスペクトル。カーブフィッティングは実験データを再現し、矢印で示した各3つの振動モードを検出した。この結果から、複数の振動モードを含むような複雑なスペクトルも再現できることが分かったという

そして、アクションスペクトル測定法にカーブフィッティングを用いた解析法を組み込むことにより、これまで経験的に見積もっていた分子振動のエネルギーを論理的に、かつ精度良く求めることができるようになった。ノイズに埋もれてしまうような小さな信号も、カーブフィッティングがうまくできるかどうかで、分子振動に由来するものかどうかを確実に判別することができる。

アクションスペクトルの解析例:Pt(111)上における水分子二量体の拡散運動。(a)がアクションスペクトル測定の実験データ。反応速度(反応確率)が上昇する点が振動エネルギーに対応するが、反応速度が緩やかに上昇するため、振動エネルギーを正確に決めるのは難しい。解析手法を用いない場合は、矢印で示した2種類の異なる分子振動が検出されているように見える。データの下図は拡散前後の水分子二量体のSTM像。下半分は拡散前、上半分は拡散後のSTM像。一方の(b)は実験データにカーブフィッティングを用いた解析法を適用した結果。カーブフィッティングにより、実験データがうまく再現されている。振動エネルギーはフィッティングパラメータから求められるので明確で、解析前は2種類に見えたが、矢印で示されているように4種類の分子振動が検出されていることが明らかとなっている

同解析手法は、どのようなスペクトルでも再現・解析することができる「汎用性」と、計算量が少ないために個人用のパソコンでも実行できる「実用性」を兼ね備えているほか、分子の振動エネルギーだけでなく、1回の反応に必要なトンネル電子の数、反応速度定数、分子振動のエネルギー幅など、反応のメカニズムを知る上で重要な情報も得ることができ、学術的に信頼度の高い手法といえると同研究チームでは説明する。

今回の研究成果により、実用的な単一分子の振動分光手法として「アクションスペクトル測定法」が確立されたこととなる。これにより、固体表面上の分子1つ1つを同定する化学分析が可能となり、分子ナノデバイスの作成技術をはじめとした、次世代ナノテクノロジーの発展が期待できるようになるほか、化学反応のメカニズムの理解にも威力を発揮することから、触媒反応機構の全容解明に向けた研究への応用も期待されるという。