ペタコンピューテングとは、1秒間に1000兆回の演算をする計算機が切り開く数値シミュレーションの新しい世界である。ペタコンピューテングが実現すれば、簡単な理論では予測困難なかなり複雑な現象の数値シミュレーションを、リアルタイムで、つまり、人間にとって違和感がないスピードで実行できる。物理法則に則った数値シミュレーションが人間の反応に追随するようになったら、バーチャルリアリティ技術で、脳空間とシミュレーション空間を直接つなぎ、人間が計算空間に直接没入できる。
人間は自分が行なった行為に対する反応がすぐ返ってくるとき、つまり双方向的な相互作用があるとき特に楽しく感じる。スポーツや囲碁や将棋などの対戦ゲームも双方向性を持つから楽しいのだ。逆に、一方的な講演やテレビはよっぽどうまく構成されてないと退屈だ。
今までの数値シミュレーションでは、計算ジョブを投げて結果を数時間、場合によっては数週間待つ。シミュレーションが終わったら、数時間以上かけてゆっくり可視化して結果を見るということが多かった。これではいかにもまだるっこしい。計算している端から可視化し、その結果を見て、その場でパラメータを動かす。できれば計算空間に自分の腕を突っ込んで、そのシミュレーションに直接介入したい。初期条件の設定もいちいち数字で、キーボードを通して入力するのは、靴の上から足を掻くようなものではないか。何とか、鉄のパネルとシリコンの基板を突き破り、計算空間に直接手を突っ込みたい。
テレビゲームは、自分が行った操作に対する反応が即座に返ってくるから楽しい。今は悲しいかな計算量が確保できないので、それらしい、しかしあまり根拠がないモデルに反応させているに過ぎない。だが、それでは物理的な根拠が薄弱なので、遊びにしか使えない。しかし、ここに物理的な根拠があるモデルを使ってペタマシンで精度良く計算させて反応させれば、予言性を持たせられる。そうすれば遊び以外の目的に適用使えるはずだ。
本稿では、生物学を題材に取りペタコンピューテングでどんな新しい世界が広がるのかを議論してみたい。
○生物学の大革新:リバースエンジニアリングを超えて
現在の生物学で使っている種々の手法は、要するに生物という製品を対象とするリバースエンジニアリングである。リバースエンジニアリングは、完成した製品にいろんな操作を加えたり、部品を壊してみて、それで何が起こるかを解析し、その製品の動作を理解して行く技術である。生物の設計図である遺伝子をあちこち壊して何が起こるかを解析するとか、いろんな刺激を与えてその反応を見るとかということで成立する生物学は、生物という製品を解析するリバースエンジニアリングの典型例である。
リバースエンジニアリングの良いところは、最初から考えるよりずっと簡単であることである。一方で、その欠点は製品の修理やちょっとした改良には有効だが、全く新しい製品を生み出すのは難しいことである。そのためには、その製品の動作原理を最初から再構築して理解する過程を経ねばならない。生物が複雑すぎて手も足も出なかった情況ではリバースエンジニアリングも仕方なかったかもしれない。しかし、その設計図となる全遺伝子情報が解読されつつある現在、リバースエンジニアリングに発想をとどめるのは馬鹿げている。
では、リバースエンジニアリングを超えた、新しい生命科学は何なのだろうか? 多分それは、生命というものを頭の中で、もしくは計算機の中で、さらには実際に再構築することから始まるのではないか。それは、自ら歩き、悪に怒り、友情に涙する鉄腕アトムのようなロボットを作ることかも知れないし、タンパク質分子やDNA分子を一つの素子とした新しい原理の計算システムを作ることかも知れない。分子モーターをスイッチとし、DNA分子を電線として基板の上に配列した、バイオともエレキとも言えないような計算システムを夢想することはあながち的外れではあるまい。
生物の脳はたくさんの神経細胞でできている。神経細胞は、ニューロンという数学モデルで記述できるようである。であるならば、たくさんのニューロンを結合すれば、脳は再構成できるのであろうか? 人間の脳は一千億個の神経細胞でできているという。では、一千億個のニューロンを集めれば何が起こるのだろうか? 本当に人間の脳は再構成できるのだろうか。そのとき心は生まれるのか。
そこには、物理学、化学、生物学、心理学、哲学が渾然一体となった豊穣な分野がちらりと見える。そこで、鍵を握るのは一つ下の階層の要素(分子の系では原子、脳ではニューロン)を丹念に記述し、ボトムアップで這い登ってゆく、大規模な数値シミュレーションである。それを可能にするペタマシンは、まさにこの新しい分野へのドアを開ける鍵である。
○分子機械のシミュレーション:生物からナノシステムへ
2001年の春の時点では、生命科学の分野では、モデル生物の全遺伝子暗号が解読されつつあり、そのフロンティアはセントラルドグマの下流部分、すなわち遺伝子の翻訳や調節、タンパク質そのものの働きの解明に移っている。生命科学用の計算はこれまでは、暗号を解読したり一次元のパターンを認識したり、データベースにアクセスするといった情報学的なアプローチが主流であった。しかし、遺伝子に対応するタンパク質のアミノ酸配列が決まり、さらにはタンパク質の基本構造が解明されるこれからは、タンパク質や核酸分子の三次元構造とダイナミクスを追う物理化学的な手法、特に分子動力学シミュレーションが重要となる。
理化学研究所の私たちのグループでは、ピーク演算速度75Tflopsの分子動力学専用計算機MDM[1]を2001年3月に完成させた(図1)。分子動力学シミュレーションにおいては、原子の間に働く力の計算に大部分の計算時間が費やされる。そこで、これをパイプライン方式を用いて高速に計算するLSI、WINE-2チップとMDGRAPE2チップを開発し、これを高度に並列化してMDMを作った。現在、主要ソフトウエアの移植やチュ-ニングを進めている。MDGRAPE-2チップを4個搭載した分子シミュレーション加速用PCIカード(約60Gflops相当)は、筆者らが設立したベンチャー会社(有)高速計算機研究所( http://www.peta.co.jp )から販売されている(図2)。
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| 図2:(有)高速計算機研究所から販売されている分子動力学シミュレーション加速ボード |
MDMの主要ターゲットは、原子数が数万程度の水溶性タンパク質である。このタンパク質の分子の数十倍の数の水分子でこれを取り囲んで水に浸った状態を再現する。全体で100万原子程度を含むシミュレーションとなる。これらについて、アミノ酸の置換による構造や安定性の変化、他のタンパク質や低分子化合物との親和性を調べるのに用いることになろう。
では、MDMをもう14倍速くして約1ペタフロップスにしたら、どんなことが出きるだろうか。これらのタンパク質シミュレーションがほぼリアルタイムで動くことになる。例えば、原子を押したり、引いたり、熱運動を体感したりすることができる。また、薬の候補となる分子を反応中心近くに挿入して、両者の間の親和性を調べたり、親和性の向上のための指針を体感できる。あるタンパク質の側鎖がα螺旋になりそうだったら、そのように手で巻いてやることもできる。鎖の強さを順々に手で曲げながら確かめて、曲がりやすそうな場所を調べれば、βターンの場所も発見しやすいかもしれない。そのような人間とシミュレータ(物理法則に則った)の協調により、三次元構造予測を実現する早道ではないかと私は思う。
また、計算結果を数日待つことをがまんすれば、1000万原子の系がシミュレーションできる。このとき、シグナル伝達などを司る膜タンパク質(図3)、ミオシンやキネシンのような分子モーター(図4)、遺伝子の翻訳・調節をつかさどるDNA/RNA/結合タンパク質複合体(図5)をターゲットにする。これらは脂質二重膜に埋めこまれていたり、繊維状になっているので、水溶性タンパク質より一桁上の1000万原子程度のシミュレーションをする必要がある。また、これらの物質は、細胞内におけるタンパク質の動態を網羅的に調べるプロテオーム研究において主要な研究対象である。また、生体のバランスが崩れた状態である病気の状態からの回復を手助けする低分子化合物、つまり薬の直接のターゲットである。
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| 図3:シグナル受容体の一つのロドプシン。光を感知すると発色団レチナールの異性化とそれに伴うプロトンの取りこみを行なう。このような7回膜貫通型膜タンパク質はシグナル受容体に良くみられる。タンパク質自身は約2800個の原子からなる。 |
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| 図4:ATP合成酵素。分子回転モーターの一つでATPの分解反応エネルギーやプロトンの輸送によって回転する。タンパク質自身の原子数は30万原子を超え、溶媒水分子を含めると最低1000万個の原子は必要。 |
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| 図5:遺伝情報翻訳(蛋白タンパク合成)システム。30s-リボソーム-mRNA複合体とアミノアシル-tRNAのドッキングシミュレーション。タンパク質とDNAの原子数は、約10万個の原子からなる。ドッキングのための溶媒水分子を含めると1000万原子程度の大規模な反応システムが必要である。 |
[1] Tetsu Narumi, Ryutaro Susukita, Toshikazu Ebisuzaki, Geoffrey McNiven, Bruce Elmegreen, "Molecular dynamics machine:Special-purpose computer for molecular dynamics simulations", MolecularSimulation, vol. 21, pp. 401-415, 1999.
(理化学研究所情報基盤研究部 戎崎俊一)
【レポート】ペタコンピューティングの世界(2) - 脳の再構成とペタドーム に続く
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