日本は島国なので英国同様に造船技術が大変発達しました。実は私の父親も造船技術者でした。その父親が一番輝いていたのは、昭和30年代から40年代にかけてではなかったかと思います。今では、ドックに水が溜まり船が浮き上がるという注水式の進水式が主流ですが、昭和40年ころまでは、船台を船が後ろ向きにスルスルと滑り、しぶきを上げて海に浮かぶ船台式の何とも趣のある方式でした。式典では船主の令嬢または令夫人が、斧で支綱を切ると、シャンペンが船首の上部付近に当たって弾けると共にくす玉が割れ、中からハトが飛び出るというものでした。そして見物に詰めかけた造船関係者の家族には紅白まんじゅうが配られ、それが子供たちの楽しみでした。今日はそんな日本の造船業について書いてみたいと思います。

【英国による衝突事件】挙句の果ては2機に1機が墜落したジェット機「コメット」での帰還

GHQが戦後行った財閥解体措置が昭和27年に解除されると、三菱も発祥の産業である造船業が急速に回復していきます。太平洋戦争中、世界に類を見ない戦艦武蔵を建造できていた訳ですから技術力も保持していました。その高い技術力に加え1ドル360円の固定相場で価格競争力も十分ありました。そして何より為替以上に日本人の人件費自体が今に比べたら大変安かったのです。そんな中、父親は長崎から欧州(国名不明)への船での出張に出ます。ただ幼い時に聞いた話なので、修理船の引き渡しなのか、新造船の処女航海への技術者としての同船だったのかは不明です。いずれにせよマラッカ海峡、スエズ運河、地中海、大西洋そして北海という大変な船旅でした。そして出発から1カ月半が過ぎて、いよいよ目的地までもう少しというドーバー海峡の手前で事件は起こります。

何と英国の船に衝突されたのです。父親はこの衝突事故はどうみても英国の意図的な衝突だったと言うのです。事故の背景は、当時技術的に後れを取り始めた英国の造船業が、三菱の技術を検証(盗む)するためではなかったかと話していました。三菱は致し方なく緊急修理のため英国(多分グラスゴー)のドックに船を回航させます。そのため船の修理には、英国の造船会社の技術者がやたら押し掛けたと言います。衝突の責任は全て英国側なので、修理代や船主への損害賠償金は全て英国側がロイズ保険で支払ったようですが、技術者の立場としては処女航海で衝突事故に巻き込まれるのは、相手に100%責任があるにしても気分は良くありませんでした。

この事件の後、父親は英国近海での航行には十分注意することと、今後の防衛策として新技術の開発を唱えたようです。この出張にはさらに落ちがあり、社員を大切にする三菱は、少しでも早く帰国できるようにと、当時民間機としては世界で最初に就航した英国製のジェット機「コメット」のチケットを手配したというのです。ところがこのコメットはまだ就航したばかりで、ジェット機の操縦にパイロットの練度が追い付いていなかったことと、構造上の問題と相まって墜落事故が頻発していました。後で分かったことですが、2機に1機が落ちたという風評まで出ていたようです。ロンドンを飛び立ったBOAC(現在のBritish Airways社)のコメットはインドのカラチで給油のため中継しますが、カラチの手前で4機のジェット・エンジンの内1機が停止しました。この時、もしコメットが墜落していたら私も生まれていなかったのですが、奇跡的にカラチに着陸できました。その後、カラチから羽田まではプロペラ機に切り替えて帰国しました。父親にとっては行きも帰りもとんだ災難だったようです。

昭和30年代に入ると、日本経済の成長に比例して鉄鉱石、石油、石炭の輸送が急増し、結果的にタンカーの新造ラッシュと大型化が起こります。そのため船の運転試験(関係者は「運転」と呼んでいました)では、まだ夜が明けきらぬ早朝3時ごろ、父親は家を出てランチ(launch→大型船に乗り込むための小型船)のある波止場に向かったものです。別記事の「日本の財産【戦艦武蔵を造った技術者たち】」でも書きましたように、五島列島付近までの運転を繰り返したようです。運転の日の夜は会社主催の宴会が料亭で開かれ、ささやかながら技術者たちをねぎらいました。そのため三菱で成り立つ長崎市内の歓楽街では、「三菱、市役所、県庁」という序列で歓迎されていたと言います。

それから時代は下り平成に入ると、コスト削減が徹底的に強化されます。その効果があってか1994年、95年と過去最高益を達成しますが、一方で船体の二重底の品質トラブルが多発し、大きな損失を出すことになります。また不思議なことに、長崎港で艤装工事途中の新造船で火災事故が多発します。一般には公表されていませんが、地元ではこの事故の原因は放火ではないかとささやかれました。本来火の気がない建造船の船内で、作業時間外に火事は起こらないのです。あまりにもコスト削減を下請けに迫った結果ではないかというのが大方の見方でした。昨年も海外から受注した豪華客船の建造途中に火災が多発しました。これは過去の火災事故を思い起こさせます。高い技術力を持ちながら政策的な舵取りを誤ると、このような結果になるのかもしれません。日本を代表する製造業には、強いリーダーシップで技術力の向上と同時に下請け企業の育成にも配慮して共存共栄を図る政策が、特に必要なのかもしれません。

おまけの話

みなさん、長崎発祥の「ちゃんぽん」「皿うどん」はどのように食していらっしゃいますか? ちゃんぽんの食べ方は全国さほど変わらないと思いますが、東京出身の愚妻は新婚当時、皿うどんにお酢を掛けようとしましたので慌ててやめさせました。「皿うどんはウスターソースを掛けて食べるんじゃい」と言ったところ、最初けげんな顔をしていました。その後、何回かウスターソースを掛けて食べると慣れましたが、どうも関東の人はお酢をかけて食べる人がいるようなので、長崎出身者としてはつい講釈してしまいます。まあ味覚は個人の自由と言えばそれまでですが、ぜひウスターソースで食してほしいなあ~と…。

それからカステラも、長崎に行くことがあったら福砂屋の普通のカステラではなく、お祝い物の「桃カステラ」を土産にすると喜ばれるかもしれません。桃カステラの一番の老舗は「松翁軒(しょうおうけん)」という店です。桃の節句や女の子の誕生日などのお祝いに食しますから、予約しないと買えないのが難点ですが、カステラの台の上に砂糖で桃の花と葉をあしらった形はとても趣があり、味もいけるのです。ぜひご賞味ください。

本記事は、アイ・ユー・ケイが運営するブログ「つぶやきの部屋」を転載したものになります。

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