技術大国日本、最近はこの言葉を聞くことはめったにないのですが、日本はロボット工学、耐震免震技、造船、精密機械、自動車、鉄鋼分野で、今も世界トップクラスです。分野だけ見ると戦争のための技術に偏っているようですが、戦後日本を支えた業界ですね。これらを支えた、「技術者」こそ20世紀の宝だったわけです。

戦艦武蔵を造った技術者たち

戦艦武蔵

武蔵が建造された第二船台

今日は戦艦武蔵を造った技術者から20年ほど前に聞いたお話です。戦艦大和はアニメ「宇宙戦艦ヤマト」や吉田 満・原作の「戦艦大和ノ最期」などで、比較的日本人に馴染みが深いですが、同型二番艦の戦艦武蔵はあまり知られていないのです。戦艦武蔵は全長263m、全幅38.9m、排水量65,000トン、出力15万馬力、最大速度27.46ノット(50.8km/h)、時速16ノットで最大13,000km航行可能という巨大戦艦です。

米軍の戦艦がパナマ運河を通過できる幅だったのに対し、戦艦武蔵の幅はパナマ運河の幅32mを超していました。その船幅によって米戦艦の大砲の口径が最大40cmだったのに対して、武蔵の大砲の口径は46cmまで大型化が可能となり、最大射程距離も42kmという驚異的なものでした。技術者によると攻撃対象が陸地であれば射程距離42kmというのは効果があるが、相手が動く軍艦の場合、実際には20km程度が限界でした。42km先まで届くのに90秒近くかかり、敵艦は移動しているため命中は難しいのです。

戦艦大和に比べて少し影の薄い戦艦武蔵ですが、戦艦武蔵が就役してからは日本海軍の旗艦は戦艦大和から戦艦武蔵に変更となりました(日本海軍最後の旗艦)。理由は至って簡単で、新しく建造された武蔵の方が一番艦である大和の欠点を改善しているからです。従って連合艦隊司令長官の山本五十六も武蔵に乗艦していました。俗にいう二番艦旗艦理論です。

2015年4月に米マイクロソフトの共同創業者で資産家のポール・アレンの探査船によって、フィリピン・シブヤン海沖深度1,000mの海底で、静かに眠る戦艦武蔵が発見されました。

長崎港

戦艦武蔵は三菱長崎造船所(現三菱重工長崎造船所)で1938年3月29日に起工、1942年8月5日に就役となりました。建造期間中、長崎市内では機密保持のため造船ドックの周囲には魚網などに使う棕櫚(しゅろ)を用いた、すだれ状の目隠しが全面に張り巡らされました。日本海軍はドックの対岸にある英国領事館(グラバー邸がある方の岸)からの視線を遮るために、領事館の海側の隣に背の高い倉庫を建てさせました。また一般市民にも情報漏えいを防ぐため、ドックを見下ろせる市内の山には全て陸軍の憲兵が立って、一般市民の入山を禁止しました。といっても、長崎は周囲が山だらけで斜面に住宅がへばりつく街なので、対岸の斜面から造船所は見えるのですが。

当初の完成予定は1942年12月でしたが、大東亜戦争が始まったため、日本海軍は三菱に対して同年の6月納期死守を言い渡しました。排水量6万トンの軍艦の工期を6カ月繰り上げるというのは、開発期間2年程度のシステム開発を1年で仕上げろというのと同じぐらいの難度があります。軍艦は水処理設備、動力機構、電力設備、居住環境などに加え武装設備を必要としますので、ITのイチゼロの世界と異なり、全てのアナログ的要素が完璧に機能して初めて軍艦となります。そのためこの6カ月の納期短縮には、造船技術者の並々ならぬ努力と苦労が詰まっているのではないでしょうか。正に三菱の社是である「滅私奉公」の精神で戦艦武蔵は建造されたといえます。しかも呉の海軍工廠で建造された戦艦大和に比べ、武蔵は建造費が半分で完成できたというのが三菱造船技術者の誇りでした(技術者の証言)。今でも三菱長崎造船所で建造される船の試験運転は、早朝4時ごろ出発して五島列島近海までの往復によるエンジン負荷テストを行いますが、武蔵も同じだったようです(昔は、試験運転日の夜は会社主催の慰労会を料亭で開催)。

こうして完成した武蔵でしたが、1944年10月24日のレイテ沖海戦で米軍航空機の6次に渡る猛攻によって被弾17発、被雷19本を受けたにも関わらず、何と9時間も耐えた後、海底に沈みました。マレー沖海戦で、日本の航空機によって数本の魚雷と爆弾によって僅か1時間程度で撃沈された、大英帝国海軍が誇った東洋艦隊旗艦の戦艦プリンス・オブ・ウェールズとは大違いです。

因みに時の英国首相チャーチルは「プリンス・オブ・ウェールズ撃沈さる」の報に、この上なく落胆したと記録されています。プリンス・オブ・ウェールズ撃沈後の生存者を救出する英国駆逐艦に対して、日本海軍の爆撃機は武士道精神に則って、「我の任務は完了せり、安心して救助に当たられよ」と打電すると共に、海戦翌日にはプリンス・オブ・ウェールズの撃沈海域に、この海戦でなくなった日英両国の兵士を忍び、飛行機より2束の花を投下したといわれています。

一方米軍はこの中々撃沈できなかった武蔵への攻撃方法の教訓を基に、戦艦大和の攻撃では全ての攻撃を大和の左舷に集中させました。バラストタンクの機能を活用させない戦法に切り替えたのです(被雷後、1時間半で沈没)。

手塩にかけて武蔵を建造した三菱造船所の技術者たちは、武蔵沈没の知らせに我が子を奪われたような気持だったのではないでしょうか。武蔵沈没の翌年昭和20年8月9日11時2分に長崎に原爆が投下されます。原爆を搭載した米軍爆撃機B29は、当初第一攻撃目標地の北九州(八幡製鉄所)を目指しましたが、北九州は雲に覆われ目標地点に照準不能だったため、第二攻撃目標の長崎に進路を変更しました。その日、長崎上空は快晴だったのです。天候が運命を変えてしまいました。時速400kmで飛行するB29ならば、北九州からものの15分で長崎上空に達します。爆撃目標は軍艦建造の三菱造船所といわれていますが、原爆の威力を考慮すると一般市民を巻き込むことは明らかで国際法に違反する爆撃でした。高度1万mから投下された原爆は高高度爆撃精度の問題と南風の影響を受けて、三菱造船所から4kmほど北の住宅地域上空で爆発しました。三菱造船所も一部被害を受けましたが、技術者たちは殆ど無事でした。生き残った彼らも大量の放射線を浴びていますので、吐き気と脱毛に合いながらも、まだ放射線が充満する爆心地近くで亡くなった、おびただしい数の犠牲者の遺体処理に、一週間近く駆り出されたといいます。その時の惨状たるや筆舌に尽くし難い状況だったそうです。

ここにこんな逸話があります。終戦の直前、海軍から三菱造船に対して戦艦武蔵の設計図は全て焼却処分するように命令が出されます。技術者たちの中に「そげん勿体なかことがでくっか!!(長崎弁)」(そんな勿体ないことはできないという意味)と言って、設計図(艤装図)の一部を密かに保管した設計技術者がいました。もし隠し持ったことが発覚すれば処刑されますが、その技術者はそれでも焼却しませんでした。

それから49年後の1994年のことです。当時の武蔵建造に従事した三菱造船所技術者のOBが、武蔵の建造過程を歴史に残そうとします。執筆者は生存する建造関係者の様々な証言を基に、「戦艦武蔵建造記録」という分厚い本を出版しました。大変高価な本でしたが三菱造船関係者が購入したため、初版は発売から数日で売り切れたそうです。武蔵の設計図は歴史の上では存在しないことになっていますが、その本には49年前に密かに保管された設計図(艤装図)の詳細が、袋閉じの本編付録として収められていました。購入した技術者たちは一様に、戦艦武蔵の設計図を懐かしく見入ったといいます。血の出る思いで造った武蔵の姿を思い浮かべて、さぞや感動したことでしょう。

私がこの話を聞いたのは実際に武蔵建造に従事した技術者からでしたが、その方も17年前に他界されました。自分たちが建造した悲劇の戦艦武蔵に対する技術者の熱い気持ちが伝わって来る話です。

本記事は、アイ・ユー・ケイが運営するブログ「つぶやきの部屋」を転載したものになります。

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