ボストン市は今、松坂投手の活躍もあってワールドシリーズを制したレッド・ソックス・ブームに沸いているようだ。大西洋に鳥がくちばしを突き出したようなボストン市。大西洋交易の港湾都市として長く栄えてきた。同時に、アメリカ独立戦争の口火を切ったボストン茶会事件、イギリス植民地軍と死闘を繰り広げた戦場のバンカーヒルなど米国建国史が凝縮された古い街でもある。

鳥のくちばしを両手で包むようにチャールス・リバーとミステイック・リバーの河口が広がる。チャールス・リバーをさかのぼりケンブリッジ市に入ると両岸にマサチューセッツ工科大(MIT)、ボストン大学、ハーバード大学など東部を代表する名門校のキャンパスが見えてくる。

このボストン市を南北に貫いているのがバーモント州からフロリダまで米東海岸を縦断する州間高速道路I-95(一部I-93)。それと市の中心でクロスしているのがローガン国際空港とマサチューセッツ州の内陸部を結ぶI-90だ。この巨大な高速道路とジャンクションがボストン市の入り口から地下に埋設された。

現場に立ってみると、改めて高速道路がこんなにも都市の景観をゆがめ、視界をさえぎり、寸断してきていたのかと思い知らされる。何と言ったらいいか、街が遠くまで見通せる。また、スクランブル交差点を使って、「あちらからこちら、こちらからあちら」に気ままに歩き回ることが、とても容易になった。高速道路が消えると街はこれほど広がりを持ち、余裕が生まれ、親しみやすくなるのか、新鮮な体験だった。いわば都市再設計によって「3丁目の夕日」が人工的に再現されているような気がした。空を覆う高速道路が取り払われて、建設当時のままの日本橋が再現された時、都民が感じる気分といえるだろう。

「道を行く子供に、お年寄りが"やあ元気かい、今日の学校は、どうだった"と声をかけるゆとりが生まれた。それと町の隅々まで目が届くようになって犯罪発生率が明らかに減った」。市の観光スタッフは大金をかけた都市再設計プロジェクトの成果に鼻高々だった。

こうした都市再設計とITの問題は、どこで重なってくるのだろう。 アメリカ憲法修正第1条は、集会、結社、言論の自由をうたっている。何人といえど公園、遊歩道など公共の場所で自分の意見を述べ、賛同を募る行為を規制されてはならないのだ。なぜなら独立戦争の発端であるボストン虐殺事件(1770年3月5日)と茶会事件(1773年12月16日)は、印紙や輸入茶にかけられた高関税に抗議する集会を英国植民地軍が弾圧したことがきっかけだったからである。その原体験から、どんな意見であろうと、その表明を弾圧することは許さない、というのが建国の精神である。

確かに公園での演説には聞くに堪えないものもあろう。自分の意見に反する演説は、不快な騒音に他ならないし、大音響の長広舌は公園でのリラックスした気分をめちゃくちゃにしてしまう。 それでも米国最高裁は言論の自由を規制しようというあらゆる試みに断固たる態度をとり続けてきた。つまり本来、連邦を構成する一人一人の市民の関心や意見から自分自身を多くの壁で遮断してしまう状況は、個人と社会、双方の利益にはならない、という信念なのだ。

19世紀から20世紀にかけて、新聞、雑誌、テレビが道路、公園の演説会に代わって公開の意見表明のフォーラム(場)となった。そして今、インターネットの時代が到来した。人々はこれまで以上に、自分に関心のある情報のみ検索しがちであるし、それが可能になった。こうした機能は、考え方の似た者同士の交流を技術的に容易にするだけに社会の集団分極化が起こりやすい。この状態をサンスティーンは、「エコー・チェンバー」(自分の声だけを遮音室で聴く)とか、「デイリー・ミー」(日刊自分好み新聞)状態と呼んでいる。こうした風潮は、民主主義を破壊しかねないのではないか、と彼は危惧する。

では、どうしたらIT時代の負を少なくできるのだろう。サンスティーンは、「規制やフィルターリングは言論の自由原則の侵害であり論外だ」と言う。残念ながら、「他人の声を聞く必要のある人ほど、反対意見を聞こうとはしない」ものなのである。だからIT社会の時代こそ、ネットワークの中に大都市で多様な意見の出会いと交流を生むのと同じようなヴァーチャルな、「遊歩道、広場」の必要ではないか。その場を彼は、「公開フォーラム」と呼ぶのだが、そこでは一切、流入する情報のフィルターリングは行われない。人々は、賛成、反対の意見、また、未知の意見と遭遇する。その渦の中で討論を繰り返し、インターアクティブを経て、「合意」が形成される。それが理想的なインターネット社会の在り方という。そうだろう。しかし、道のりは遠いように思われる。