日本語で「都市計画」というと、役所主導の公共事業というイメージが強い。専門家ではないが英語の"Urban Design"にはもう少し広い意味が込められているような気がする。そこで以後、Urban Designを「都市デザイン」と呼ぶことにする。

正直、今回アメリカで短期間生活するまで都市デザインには全く関心がなかった。せいぜい、学生時代に羽仁五郎氏の「都市の論理」を走り読みして、「産業革命後の都市という空間は、単に人が集まった"場"というだけでなく王権(権力)への反抗の砦でもあった。だからそこに集う人を自由にする機能を内在しているのだ」と思ったくらいだ。

それがひょんなことから、「都市の創造的機能を発揮させる要素と、理想的なIT社会を作ってゆく方法論との間に深い相関性がある」ことがわかって、がぜん面白い研究テーマとなってしまった。

その理由の第一は、このコラムでも以前にふれたが、「インターネットは民主主義の敵か」(石川幸憲訳、毎日新聞社)の著者、キャス・サンスティーンが、本の基本的アイディアを創造都市論の始祖ともいえるジェイン・ジェイコブスの、「アメリカ大都市の盛衰(The Death and Life of Great American Cities)」から得たと告白していることだ。

彼女の創造都市論の特徴は、都市の機能をハード面でなく民主社会を発展させるためのソフト面からとらえたこと。特にダウンタウン(日本で言う下町とは微妙に違う)の多様性と、多様な意見が出会い、化学変化を起こしてゆく空間としての歩道の重要性を強調したことで有名だ。

「ジェイコブスの『創造都市』は、人間の創造性を引き出すような多様性に富んだ『創造的地域社会』と、ポスト大量生産時代の柔軟で革新的な修正自在の都市経済システムを備えた都市といえよう」(日経ゼミナール「都市 再生と創造性」という評価もある。サンスティーンは、特に影響を受けたとして「アメリカ大都市の盛衰」のこの部分を引用している。

「自分とは全然違う人たちと歩道で付き合いが始まり、それが時の経過と共に気安い公然の付き合いに発展することがある。そのような関係は何年も、何十年も継続することもある。寛容、つまり人種間の違いよりも深いといわれる都市の住民間の違いを受け入れる余地は、他人同士の共存を可能にする仕掛けが大都市の道に備え付けてさえあれば、可能になるだけでなく常態となる。

重要度が低く、目的もなく、行きあたりばったりのように見えるかもしれないが、歩道での触れ合いが都市における公共生活の豊かさへと発展するかもしれないのだ」(「The Death and Life of Great American Cities」(Jane Jacobs) Random House 1961)。

そのうえでサンスティーンは、このように自説を展開する。 「ジェイコブスが歩道で発見した恩恵は、他の多くの場で探せるだろう。時にはバーチャルな歩道が、舗装された歩道よりもはるかに優れた公共の場所になる可能性がある。情報通信システムは、最善の状態では、巨大都市の中心街に近いもの、あるいはそれに指摘するものになると私は考える。(その上、より安全、より便利、そしてより静かだ)。健全な民主主義にとっては、仮想であろうがなかろうが、共有の公共スペースは、自らの声のみが反響するエコーチャンバーよりはるかにいいものなのだ」。

この議論については、後でさらに発展させるとして、「都市デザイン」に目覚めた第二の体験を先にご紹介しよう。それは今春、ボストンを15年ぶりに訪れた時の発見だ。旧友のかつての恋人、ジョアンが「観光ルートにない」市内ツアーを買って出てくれた。彼女が数時間のツアーで見せたかったのは、景観の変化もさることながらジェイコブスの言う、「創造的都市」への再生ぶりだった。

目で見る最大の変化は、市内を十文字に、あるいは蛇のように走っていた巨大な高速道路が消えてしまったことだ。どこへ行ってしまったのか? と思ったらボストン市が、連邦政府の資金援助を得て地下に埋設してしまったのだ。

「驚くべきことが起きたのはその後よ。ダウンタウンを万里の長城のように、いいえベルリンの壁と言った方がいいわ、仕切っていた巨大な壁が取り払われたら、なんと人々が街の中を東西南北、歩き始めたのよ。街頭犯罪も減って私にとって一番うれしかったのは、治安が悪くて安かった私のアパートの資産価値が上昇したことだわ」とジョアン。

無論、高速道路を地下に埋設したことで都市問題のすべてが解決したわけではないだろう。でも、ジェイコブス理論の壮大な実験は、ボストンでは成功したようだった。同時に数年前、高速道路を撤廃して川の流れを元に戻し遊歩道も付けたソウル市の都市再生(李市長はこれで人気が沸騰、大統領選の最有力候補に躍り出た)。また、高速道路を埋めて往年の日本橋の景観を取り戻そうとする国内の運動の原点がジェイコブスの「創造的都市の再生論」やボストンの例に学んだ結果ということも分かってきた。