「小泉前総理の失敗は靖国神社に行った行為そのものより、それによって対アジア外交がすっかり受け身に回ってしまったことにあるんですよ」。

ヴォーゲル先生はハーバード大学構内のファカルティークラブで 静かに話を続ける。高い天井の明りとりから硬質な日光がいくつもの筋を作りながら差し込み、窓の外の美しいキャンパスにはなごり雪が目立つ。

「アジアの指導者の誰もが小泉さんは総理になるまで靖国神社に行ったことなどない、ということを知っています。つまりあの行為は、国内の右翼勢力に向けた人気取りでしょう。信念ではなくて。人気はとれたかもしれないけれども中国、韓国以外のアジアの指導者に会っても、最初の会話が靖国神社へ行った弁明や正当化から始まる、というのはあまりにも残念でしたよ。今、インドやASEAN諸国の成長力、それを背景にした国際外交への発言力はとても高いのに、日本がそれらの国と一緒になって資源の問題や環境対策で世界に働きかける積極外交戦略の機会を逸してしまった」。

「安倍さんの訪中、訪韓で首の皮一枚でつながった、という感じの両国関係ですけれども悪化の原因は全部、日本側にあるということなのでしょうか?」。

私の質問にヴォーゲル先生は、こう答えた。 「そりゃあ中国側にもあります。今日の日中関係の基調は1978年トウ小平(*1)主席の訪日時に設定されたものです。トウ小平は天皇陛下にも会い、その"quiet apology"に強い感銘を受けた。その後の記者会見で尖閣列島問題について、『我々は知恵がない。孫子の世代で解決しよう』と棚上げした。この発言でも日本から見れば不満があるかもしれないが、トウ小平が背負った政治リスクはそんなものではない。トウ小平までの革命第一世代は戦争に命をかけ、さらに文化大革命では逮捕監禁に耐えた。天安門前事件を乗り切ったことでも分るようにトウ小平には国内の反対派を押さえつけるだけの力があった。それに比べると江沢民以下の第二世代は共産党エリート出身のサラリーマン。カリスマ力がないから国内情勢に振り回される。日本側もその点は理解しないとね」。

「世界の街角 第1回」で紹介した中国専門家の、「保守派の安倍の方が国内右派を抑えられるから中国の利益に合致する」という見方についても先生の意見を聞いてみた。

「そういう面もありますけれど、中国の対日政策にも大きな変化が表れていますよ。昨年秋から中央電視台がゴールデンタイムに放映している『偉大なる国家』を見ればよく分かります。これは米国、英国、ロシアの順で、これらの国家が如何にして世界の大国になったのかを紹介する番組です。ロシアの次は日本が紹介された。その内容は日本が幕末、明治を通じ、どのように植民地化を避けアジアの大国になったかを極めて客観的に紹介したもの。これは1989年以降の感情的な対日キャンペーンとまったく異なる視点で作られていて、胡錦涛政権がこれ以上、対日関係の悪化を望んでないことがよく分かります。それに音楽コンサートの開催や、映画の紹介で日本のファッションや、カルチャーに対する中国人の関心は、とても高かまっている。だから両国関係は双方が細心の注意を払えば十分、コントロール可能だと思いますよ」。先生はファカルティークラブで談話を交わす何組もの中国人グループを眺めやりながら語った。

昔から米国の一流大学に留学する中国人学生の数は日本人の比ではない。ただ私が米国に暮らしていた90年代は、その多くが政府派遣留学生だった。そしてかなりの学生が結婚や、何らかの理由を見つけてアメリカにとどまる、アメリカ人になることを強く望んでいた。それが今は違う。所得の向上に一人っ子政策が重なり留学生の多くが私費留学生となった。卒業後もアメリカ企業に就職してキャリアーを積んで上で中国本土に戻る人が多い。前回も指摘したが、こうしたヒトの面でも米中経済関係は深まるばかりだ。

最後に長期的な日中関係、そして日米中関係先生に聞いて見た。 「今の日中関係を歴史的に振り返ると第一次大戦前によく似ていますね。経済関係は発展して相互依存が深まっていったのに、日本が屈辱的な21カ条要求を迫ったことで政治関係が緊張、ナショナリズムに火がついて全国的な抗議行動、5・4運動に発展してしまった。中国人には未だアヘン戦争以来の歴史的トラウマ(屈辱感)が残っているから、政治的緊張の発火点は日本人が想像するより低い。ただ日中関係がどうなろうと米国はアジアのキー・プレイヤーである中国を無視できない。むしろ経済、政治対話は質量とも日米を上回って行くだろう」。

先生は、「だから...」とは言わなかった。かつて日米中三角関係は二等辺三角形と言われた。日米間がより緊密という意味だった。でもヴォーゲル先生の話を聞いて、アメリカのリベラル派にとって3カ国関係が正三角形に変わったことが良く分った。

(*1):トウは登におおざと