先日、川崎にある岡本太郎美術館に行きました。そしたらもう凄い人です。とくに若いお客さん。グッズコーナーに行けば、さらに賑わっております。太郎さんグッズ、なかなかかわいいんですよね。太郎さん、人気ありますね。生前、太郎さんは「芸術家は誤解されてこそ……、嫌われてこそ……」というようなことを言ってたと思うのですが、2011年、生誕100年TARO祭で盛り上がる現状を太郎さん本人が見たら、どんなことを思われるんでしょう。霊魂となった太郎さんと一緒に渋谷の街にいってみたいもんです。

今やグッズもかわいい岡本太郎さんですが、太郎さんのその芸術活動の中で、僕がもっとも注目したいと思うのは、「縄文土器の芸術的価値の発見」だったと思います。これまで学術的にしか研究されてなかったものを、太郎さんがその造形そのものの魅力を、縄文人の精神面を大絶賛したんですね。これまでも縄文の美に声をあげた人はいたかもしれないけど、太郎さんは大声で言った。これは凄いことです。縄文土器の魅力をハッキリと言い切ったんですね。これぞ、日本人の美意識の根源だ~~! って。これまで日本の美というものは、侘寂(わびさび)などに代表される静かな世界観であって、縄文のような動的なものではなかったんですからね。これは当時、センセーショナルな話題となって、縄文文化に対する一般的な理解が深まったんです。

太郎さんの言葉で言うとこうなります。

激しくおいかぶさりかなさりあって、隆起し、下降し、旋回する隆線紋、これでもか、これでもかと執拗にせまる緊張感、しかも純粋に透きとおった神経の鋭さ、堂々芸術の本質として、超自然的激越を主張する私でさえ、思わず叫びたくなる凄みである。

超自然的激越! だって。マンガのセリフみたいですね。

太郎さんの言葉をもうひとつ。

繰り返し、強調したい。人間にとって根源的な神聖感は、そもそも対決する「自然」である。

対決する「自然」。これはどのような意味なんですかね?

僕なりの解釈で恐縮ですが、僕らの文明は、木を伐り、土を掘り、川をせき止め、海を埋立て、さらには大気圏を突き破り、とめどなく発達させてきました。目の前の木の枝をボキッと折ることから始めてきたんです。でも自然は甘くなく、時に人命をも奪う勢いで襲いかかってきます。人間は命がけで自然と対決してきました。人の気配のない雄大な大自然に囲まれた時、なんだか恐ろしい気持ちになるし、火を見ただけでも気持ちが高揚したり、逆に静かな気持ちになったり、精神面に強い刺激が与えられます。巨大な奇岩の上にまた巨大な岩がバランスよく乗っかってたりして、その岩に根を括着させて育ってる木を見たりすると、もう、人の及ばないとんでもない力を感じます。そんなものを目前に尻込みしながら、心の底のほうで自分が生きてることを実感しませんかね? しません?

太郎さんが言うとこうなります。

迫力ある言い方ですね。

この話、まだつづきます。

タナカカツキ


1966年、大阪府出身。弱冠18歳でマンガ家デビュー。以後、映像作家、アーティストとしても活躍。マンガ家として『オッス! トン子ちゃん』、『バカドリル』(天久聖一との共著)など作品多数。1995年に、フルCGアニメ『カエルマン』発売。CM、PV、テレビ番組のオープニングなど、様々な映像制作を手がける。映像作品『ALTOVISION』では「After Effects」や「3ds Max」を駆使して、斬新な映像表現に挑んだ。キリンジのアルバム『BUOYANCY』など、CDのアートディレクションも手掛ける。