クリエイティブに関わる人はデリケートな性格の人が多いか?

これは多分、そうだと思う。例外はあるにせよ、おおかた人見知りだったり、人付き合いが苦手だったり、自意識過剰、いつも緊張してて肩こりが激しかったり……。僕も例外ではなくて、小学生の頃から神経症で夜尿症がなおらず、母親から毎日漢方を飲まされていた。でも、人付き合いが苦手、として、そのまま生きてゆくのはもっと大変そうなので、なんとか社会と繋がりを見つけて生きていくしかない。仕事をするとかなると、もう社会のまっただ中に身を置かなければならない。デリケートな人はたいへん。大勢の人前で堂々と話せる人が羨ましいと思ったこともあるけど、それはそれでなんか信用できない人物に思われる。自分の意見をよくそんな大勢を前に堂々としゃべれるなあと思うし、その人の恥ずかしいという「恥センサー」みたいなのは、どこにあるんだろうと思う。

「羞恥心」を多く持ってる人は、いつなんどき恥をかかされるかわからないので、常に緊張を強いられる。いつも緊張しているから、その状態を緩和してくれるものに対して徹底的に敏感である。「緊張を緩和」してくれるもの、たとえば、いい匂いだったり、心地よい景観だったり、「笑い」もそうですよね、「緊張」をコントラスト良く「緩和」した瞬間に「笑い」が生まれる(僕はそう思ってます)。ゆえに、笑いを作り出す芸人の多くは「恥センサー」が搭載されていて、基本、人見知りなんだけど、それを乗り越えようとしている逞しい方々なんだと言うこともできそう。

センサーには「細かいところを気にする」という働きがあるから、丁寧な仕事をする人はぜひとも持ちあわせたい感覚だけど、同時に人見知りや緊張なども引き起こすので、うまく使いこなさなければならない。20代の頃、僕はこの人見知りと徹底的に戦おうと決意して、舞台役者をやったりなんかして荒治療に専念したこともあったけど、舞台では大胆なことができるけど日常生活でのデリケートはぬぐえないという結果に終わった。これはもう一生つきあっていくしかないなあと、開き直って諦らめてたら、30代に入って変化した。なんとなくいつもより緊張しない。人見知りも、人の眼をみてしゃべることも苦痛ではなくなっている。なんでだろう、それはこんなふうに考えたことがきっかけだ。「人見知り」とは何か、それは「自分の評価してもらおうとする、卑しい気持ち!」とすることにして、人見知りする度に「卑しい!」と思うことにした。評価してもらおうとせずに、ダメだったらダメでいいや、と思うことにしたら、徐々に、センサーを取り外すことができるようになった。それか、歳を重ねて自然に感覚が鈍化したかもしれないし、あるいは人前でしゃべることに慣れてしまったのかもしれないが、今では困ったほどには緊張しない。つい先日は友人の結婚式で媒酌人を平然と勤めあげた。もう安心。社交もドンとこい!

かといって、緊張や人見知りの感覚を忘れたわけではない、センサーの取り外し、取り付けを自由に行えるようになっただけ、取り外したいときは「もうどうでもいい」と頭の中で唱える。「どうでもいいくらいが丁度いい」と思うようにして、気持ちをヒリヒリさせないようにした。さて、これがいつまで都合よく作用してくれるかわからないが。

この文章を書いてる今も、「どうでもいい」と思っている。どうでもいいと思わないと、こんないい加減な文章は書けないでしょう。おい! 自分、なんだかわかったふうな、あやしいことを書いてるぞ! とセンサーは稼働しているが、アウトプットしなければ、いつまでも頭の中だけで終始完結して、何も産み出すことをしなくなるからだ。どうでもいいものをどんどん産み出す方がいいにきまってる。どうでもいいものの中に、どうでもよくないキラリとするものが混ざってる場合があるからだ。

タナカカツキ


1966年、大阪府出身。弱冠18歳でマンガ家デビュー。以後、映像作家、アーティストとしても活躍。マンガ家として『オッス! トン子ちゃん』、『バカドリル』(天久聖一との共著)など作品多数。1995年に、フルCGアニメ『カエルマン』発売。CM、PV、テレビ番組のオープニングなど、様々な映像制作を手がける。映像作品『ALTOVISION』では「After Effects」や「3ds Max」を駆使して、斬新な映像表現に挑んだ。