「App Storeは驚くようなペースで成長しています。アカウント数が4億を超えました。これらはクレジットカードが登録されていてワンクリック購入が可能なアカウントです」

WWDC 2012の基調講演に登場したApple CEOのティム・クック氏が最初に示した数字である。4億……と言われてもピンと来ないが、ちなみに米Amazon.comのアクティブアカウント数は1億5200万+、PayPalは1億1000万である。3-4倍の規模のAppleがその気になって手を広げれば、電子決済の勢力図が一変しそうだ。この圧倒的な数字が、WWDCで同社が発表したiOS 6の新機能Passbookに多くの人が期待し、そして失望している理由である。

Passbookは、iPhoneやiPod touchでチケットや搭乗券、メンバーカードなどをひとまとめにして管理・利用できるようにする機能だ。Starbucksのストアカード、Fandangoで購入した映画のチケット、United航空の搭乗券など、今はアプリごとに散らばっているものが、Passbookに一覧表示され、すばやくアクセスできるようになる。iOSに組み込まれた機能なので、時間と位置情報をベースにした通知をパスがサポートし、変更もすぐに反映される。例えば、空港に着いたら搭乗券のパスの通知がiPhoneのロック画面に現れ、スライドするとQRコード付きの搭乗券の画面が表示される。出発ゲートが変更されたら、パスのゲート情報が更新され、その旨の通知が送られてくる。

iOS 6の新機能Passbook

このようなPassbookの利用スタイルは、概ね高く評価されている。ユーザーにとって使いやすく、有用なものである。開発者はAppleが用意するテンプレートを用いて、簡単に美しくてiOSの機能を活用したパスを作成できるそうだ。議論となっているのは、Passbookがクレジットカードや銀行のアカウントに紐付いたサービスではないことだ。Appleは4億ものクレジットカード情報を持っているのだ。もしAppleアカウントで決済できる仕組みを用意してくれたら、スモールビジネスや個人もパスを活用できるようになり、またiPhoneを使った支払いの幅が広がる。それをやってくれそうにないAppleに失望の声が上がり、逆に「Passbookは決済プラットフォームへの布石」と、将来のAppleアカウントとの統合に期待する人も多い。

ユーザーがすぐに使えるPassbook

Passbookのパスはスマートだけど、Passbook自体はiPhoneをおサイフにするような仕組みではない。デジタルウォレット(電子サイフ)ではなく、パスブック(通帳)でもない。パスを管理するという意味でPassbookなのだろう。製品名をWalletとしているGoogleに比べると、なんだか中途半端な印象である。そこに両者のアプローチの違いがよく現れている。

米国でクレジットカードは必携だ。あらゆるお店やレストランに、場末の中華レストランにすらクレジットカードの決済端末が置かれているからだ。ポケットに数ドルしかなくても、クレジットカードがあれば困らないし、実際にそうしている人は多い。「現金を持ち歩かないで済む」という点で、米国では携帯が登場するずっと前からサイフのスリム化が実現していた。それが今、携帯電話のおサイフ化を困難なものにしている。磁気テープが貼られたプラスチック板のクレジットカードだから、場末の中華レストランでも使えるのであって、携帯にまとめてしまえば、使える場所は極端に狭まる。それならカード一枚を持ち歩くのを選ぶ。

GoogleがNFCの普及に努めているが、NFCを使える携帯、Google Walletで支払いを済ませられる店舗はまだまだ少ない。うちの近所で検索するとドラッグストアのCVS、カフェチェーンのPeet's Coffee、ハンバーガーショップのJack in the Boxなど、大手チェーンばかりだ。個人経営の店はひとつもない。クレジットカードを忘れてもおサイフ携帯でなんとかなるという状況にはほど遠い。

いま米国人のサイフを太らせているのは、レシートやチケット、メンバーカードである。クレジットカードよりも、それらを携帯に集約する方が現実的なソリューションである。そうした機能をGoogle Walletも備えているが、そこに焦点を絞ったPassbookはより現実的な解である。電子チケットや電子カードを扱うiOSアプリはすでに多数存在するから、秋にiOS 6が登場したら、たくさんの人がすぐにPassbookを日常的に利用し始めるだろう。

では、なぜAppleはPassbookとAppleアカウントを統合しないのか? 4億以上ものクレジットカード情報は、同社の強力な武器であるのは間違いない。だが、今はまだ、そのカードを切るタイミングではない。仮にAppleがスモールビジネスや個人がクレジットカード支払いを受け取れる仕組みを用意したとして、次にパスをスキャン処理する環境という問題が出てくる。現状ではiPhoneユーザーに有用なパスを提供できる業者は限られ、それらはPassbookとAppleアカウントの統合を必要としていない。セキュリティ問題、利用規約の変更、トラブル処理サポートなどのデメリットを被ってまで、Appleが統合を急ぐ必要はないのだ。

ここ最近NFC対応がiPhoneの噂の定番となっているが、NFCがプラスチック板のクレジットカードと競争できるような見通しが立てば、当然Appleも採用するだろう。しかし、それはSquareが提案するようなソリューションになるかもしれない。なにがプラスチック板に取って代わるのか、この見極めは重要だ。一度iOSでサポートすれば、アプリ開発者がついてくる。方向を決めたら一気に進むから、最初の舵取りを誤れない。iOSアプリで電子チケットや電子カードをユーザーが便利に使える環境を整備しながら、今はまだ慎重に潮目を読んでいる。ちょっとズルく、しかし堅実なやり方である。そんな様子見を決められるのも、同社が4億+アカウントという切り札を持っているからだろう。

位置情報を活用したSquareの決済ソリューション、店の近くいるだけでiPhoneから商品を購入できる