Appleが2004年に開催したスペシャルイベントにU2のボノとジ・エッジが登場してミニライブを行った。その時に「iPod U2 Special Edition」が発表されたのだが、イベント終了後に集まった報道関係者の間で「U2はパートナーシップに慎重になるべき」「ボノたちにはがっかりした」という2人に対する批判的な声が目立った。当時のU2は全米中でスタジアムライブを確実に売り切れにするだけの勢いがあった。一方、デジタル音楽配信はまだ立ち上がり始めたばかりで、消費者やミュージシャン、音楽産業にとって何が最善なのか明確ではなかった。そんな状態だったから、U2のような影響力のあるミュージシャンが特定のプラットフォームや企業に肩入れするのはいかがなモノか……というわけだ。

今の電子書籍配信は、04年のデジタル音楽配信よりも少し成熟している段階だと思う。市場が形になっていて問題点もはっきりしている。今日の出版産業において04年のU2並み、おそらくそれ以上の影響力を及ぼしそうなのがハリー・ポッター・シリーズの作者J.K.ローリングである。これまで電子書籍には否定的だった同氏が先月23日に、10月正式オープン予定のPottermoreを通じて同シリーズの電子書籍版を提供することを明らかにした。ファンが長らく待ち望んでいた電子化がついに実現する。

本好き、電子書籍嫌いから一転、デジタル版によるハリー・ポッターの世界の拡張に乗り出したJ.K.ローリング

リリース文に目を通したときは「マルチメディアやゲーム、新コンテンツを組み合わせたオンライン版なんだ、ふ~~ん」という程度だった。ところが、英国での発表会を取材した英WIREDの記事を読んで印象が一変した。書籍産業に大きな波紋を投げかけそうなサービスなのだ。米WIREDのブログは「ハリーポッターで、出版界にもレディオヘッド騒動勃発」と表現している (レディオヘッドは07年に新譜「In Rainbows」のMP3版をファンが自由に購入価格を決められる形で、自分たちのWebサイトを通じて先行発売した)。

ポイントは2つ。「直販」と「DRM (デジタル著作権管理)フリー」だ。「1億ポンドになっても不思議ではない」と言われたハリー・ポッター・シリーズ電子版の権利を、ローリングは売り渡さず、自らのWebサイトPottermoreを通じて電子書籍版を提供することにした。既存の電子書籍販売ルールは一切介さない。しかも英WIREDによると、DRMを使わず幅広いプラットフォームやデバイスで読めるようにする。DRMの代わりに、購入者を識別できるようにするデジタル透かしを電子書籍ファイルに埋め込むそうだ。これはAppleがiTunes Storeで販売しているDRMフリーの音楽で採用しているのと同じ方法で、海賊行為を防ぐものにはならないが、違法コピーに対する心理的な抑制にはなる。

DRMフリーの電子書籍形式というとEPUBの採用が広がっているが、電子書籍市場をけん引するAmazon.comのKindleが同形式をサポートしていない。デジタル音楽におけるMP3のようなプラットフォーム/デバイス共通のファイル形式が存在しないことが、今日の電子書籍の利用体験を限定的なものにしている。そのような状況に対してpaidContent.orgのローラ・オーエン氏は、「もしAmazonのポリシーを変えられる作家がいるとすれば、それはJ.K.ローリングだろう」と指摘している。今のところ電子書籍版ハリー・ポッターがEPUB形式になるのかどうかはまだ分からないが、もしEPUBが採用されてKindleだけハリー・ポッター・シリーズが読めないことになれば、Amazonとしては非常にマズい事態である。

Pottermoreのパートナーは、デジタルエージェンシーのTH_NK、電子書籍配信システムを手がけるOverDriveなど。ソニーも支援を表明した。「ハリー・ポッターと賢者の石」に続いて、来年の早い時期にシリーズ第2作目の「ハリー・ポッターと秘密の部屋」の電子版が刊行される予定だ。ファンは電子書籍を読みながら、読者参加型のオンラインサービスを通じて本とは違った形で、ハリー・ポッターの世界をインタラクティブに体験できる。なお英WIREDによると電子書籍版の購入者だけではなく、印刷版の読者であってもPottermore.comのサービスを楽しめる。Bloomsbury/ Scholasticなど書籍版を手がけてきた出版社とは電子版の権利を巡ってわだかまりも残ったと思うが、Pottermore.comを通じて電子書籍版と印刷版がうまく共存できる模様だ。

Pottermore.com

発表の中でローリングは、ハリー・ポッター・シリーズが今でもファンと共にあるからPottermoreの提供を決めたと述べている。DRMフリーはファンを信頼した仕組みであり、そのファンにJ.K.ローリングが直接電子版を届ける。この作家とファンの太いつながりは、電子版配信の新しい形になりそうだ。

Pottermoreが作るDRMフリーへの流れを、消費者や図書館は歓迎するだろう。だが「ハリー・ポッターですらDRMフリーなんだから……」と言われるようになるのは、多くの作家と出版社にとって恐怖である。ローリングが自身でPottermoreを展開できるのはハリー・ポッターが強力なブランドに成長したからだ。それを持っていない作家は、出版社や特定のプラットフォームに頼らざるを得ない。先月、スリラー作家のジョン・ロックが米Amazonの電子書籍販売サービスを使った自費出版で100万冊を突破した。ローリングと同じ「出版社抜き」だが、ロックの場合はクローズドで巨大なKindleプラットフォームだから実現した快挙と言える。

直販/DRMフリーのPottermoreは出版界の異端児である。しかし、その影響力は強大で、デバイスやプラットフォームのアピールに陥りがちな電子書籍産業を「読者はストーリー(コンテンツ)を楽しむもの」という基本に引き戻すような力を備える。しかも「出版社や作家の利益の保護」と、本当の意味で「自由なコンテンツへのアクセス」の両立を実現するには、プラットフォーム単位ではなく、電子書籍産業全体の成長につながるような取り組みが避けられない。実際、Amazonが年内に図書館貸し出しサービス「Kindle Library Lending」を開始する計画を打ち出している。米国の図書館ネットワーク向け電子書籍配信サービスを構築するOverDriveと提携し、同社がサポートするEPUB対応デバイスと同様の本の貸し出しをKindleでも受けられるようにするという。OverDriveとKindleの間でDRMで保護された書籍の情報を連係させるような仕組みになると考えられる。このようにAmazonが門戸を開き始めたこともあり、Pottermore.comがオープンするまでにKindleのEPUB対応が実現するのではないかという期待も高まっている。