米国時間の3月6日に米Hewlett-Packard(HP)が研究部門HP Labsの大規模な改革を発表した。現在同部門は世界7拠点に23の研究所を持ち、600人以上の研究者を抱えている。プロジェクト数は150程度。これらを20~30のプロジェクトに絞り込むという。ただし人員削減や規模縮小を実施する計画はなく、「ラボに起業家精神を注入する改革」なのだという。

HPというと、スタートの場所となったガレージがシリコンバレー発祥の地に認められている。そのガレージでHewlett氏のネガティブフィードバックの研究成果を元に開発したレジスタンス・キャパシタンスオーディオ発振器がHPの最初の製品だ。Disneyが8台購入し、映画「Fantasia」用の劇場スピーカーシステムのテストに使用したことで知られる。その"invent"精神を受け継いでいるのがHP Labsであり、科学計算用電卓からインクジェット印刷まで、数多くのHPを代表する製品に息づく技術を生み出してきた。だが近年、研究プロジェクトが多様化すると共に、必ずしも製品に結びつく研究ばかりではなくなってきた。そこで顧客が直面している問題の解決や、HPに新たな成長機会をもたらす分野に研究の焦点を絞るのが今回の改革の狙いである。

HPの研究開発の原点であるガレージ。机の上に置いてあるのがWalt Disneyに売り込んだオーディオ発振器「Model 200A」

今後まず注力する分野として挙げられたのは「大量な情報の取得/分析/伝達」「ダイナミックなクラウドサービス」「アナログからデジタルへの円滑なコンテンツ変換」「情報サービスを支える新型機器やネットワークなどの技術」「環境にやさしい技術、ITインフラやビジネス・モデル」の5つ。顧客のニーズや製品化に結び付けるための改革が、ネットを意識したシフトになっている。これは「全てが"サービス"に向かうIT産業の大きなシフトに対応する戦略」だという。最高戦略および技術責任者であるShane Robison氏は、一例として「次世代のサービスの波を作り出すには、個人のロケーションや好みなどをリアルタイムに理解し、反映させる必要がある」と述べた。これがロケーションやプリファレンス、カレンダー、コミュニティなどをベースに動的なパーソナライズを実現するWebプラットフォーム(ダイナミック・クラウドサービス)という新分野開拓につながっている。

さらに今後注力すべき分野を正しく見極めるために、HPでは技術分野とビジネス分野のエグゼクティブから成る検討委員会を新たに設けて、製品化を見据えた研究ガイドラインを作成するそうだ。このほか開発中の技術を公開するWebサイト「HP IdeaLab」、大学や政府機関、他社との戦略的なコラボレーションを進める「Open Innovation Office」、研究を製品やサービスに結び付けるためのビジネス部門とのプロジェクト「Technology Transfer Office」などを設ける。

情報秘匿が徹底されたiPhone開発

ネットのスピードに合わせてR&Dを改革する動きは今やめずらしくはない。たとえばMicrosoftも06年に「Microsoft Live Labs」と「Search Labs」を設立した。ただMIX06で驚かされたLive Clipboardが未だに形になっていなかったり、Yahoo!買収に乗り出したりしているのを見ると、その効果にも疑問符が付いてしまう。オープンなR&Dは研究の方向を絞り込むのに役立つだろうが、必ずしも成果がすぐに製品やソリューションに結びつくとは限らないようだ。

製品開発というと、米WIRED誌の16.02号に掲載されたAppleのiPhone開発の裏話の記事が実に面白かった。02年時点ですでにSteve Jobs氏はiPhoneへとつながるアイディアを持っていたが、当時は実現する技術が存在しなかった。しかしタッチスクリーン技術とARM11で実現に自信を持った同氏は、05年2月にCingularのトップにiPod携帯についてプレゼンテーションした。そしてiPhone OSをどのように仕上げるかという課題を乗り越えて、iPhoneプロジェクトは動き出し、07年MacworldにおけるiPhone発表に至る。あの基調講演のスムースなデモを見たときには準備万端という印象を受けたが、実は綱渡り状態だったようだ。記事では06年の秋時点でプロトタイプがまともに動作せずJobs氏が激怒するシーンが紹介されている。P2(Purple 2)と呼ばれたiPhoneプロジェクトは情報秘匿が最優先され、例えばAppleの幹部がCigularを訪れる際はInfineonの社員として旅行していた。ハードウエアとソフトウエア・チームは別々に、しかもApple社内に分散。ハードウエア技術者は回路にフェイクのソフトをロードし、ソフトウエア技術社は木箱の中に回路を隠しながら作業するという念の入れ様。07年のMacworld時点で、iPhoneを目にしたのはシニアレベルの30人程度だったそうだ。

結果的に公開されたiPhoneは大きな驚きで受け止められ、しかもモバイルインターネットを米国の一般消費者に浸透させた。ただAppleのやり方を実践するのは非常に難しい。iPhone開発ほど閉ざされていると効率性が悪いし、完成した製品が消費者のニーズを満たすとは限らない。このような方法でMac、iPod、iPhoneとホームランを連発してきたJobs氏はただ者ではないが、強運の持ち主でもありそうだ。

ネット時代においてはHP LabsやLive LabsのR&D手法の方がスマートと言える。それでも技術を製品やソリューションとして具体化するには明確なビジョンとリーダーシップも欠かせない。HPの発表では、その辺りが伝わってこないのが気になるところだ。HP Labsの新リーダーは07年8月にHPに加わったPrith Banerjee氏だ。同氏は長年学界に身を置きながら、AccelChipやBINACHIPの起業も成功させてきただけに、HP Labsに起業家精神を注入するのに適任と言える。同氏の今後の手腕に期待がかかる。

近年のHP製品にサプライズはないものの、平均点の高い製品とサポート、サービスで世界1位のPCベンダーの座を獲得した。奇しくもHP Labsの改革発表が行われたのと同じ日の午前中に、AppleがiPhone/iPod touch用SDKを発表するイベントを開催した。HP Labsが掲げる5つの分野はiPhoneがターゲットとする市場と重なる部分も多い。ユーザーを驚かし、楽しませるApple、そしてユーザーを納得させるHP。シリコンバレーを代表する2社が今後どのようなネットデバイスとサービスを投入してくるか楽しみである。