このコラムの通しタイトルは、「サッカー監督に学ぶマネジメント術」であるが、そもそも「マネジメント(management)」とはどういう意味だろうか。

改めて辞書を引いてみると、「経営」「管理」「支配」というお堅い言葉とともに、「やりくり」「ごまかし」といった柔らかい言葉も並ぶ。

とかく、マネジメントというと、前者の「管理術」なり「経営術」に走りがちになるが、後者の「工夫術」なり「懐柔術」もその要諦なのである。

ところが、「硬」一辺倒の「統御型」マネジメントによって、最高の成績を収めてきた監督がいる。マンチェスター・ユナイテッドのサー・アレックス・ファーガソンである。今回から数回に渡り「世界最高の監督」のマネジメント術に迫ってみたい。

著者プロフィール

鈴木英寿(SUZUKI Hidetoshi)


1975年仙台市生まれ。東京理科大学理学部数学科卒。専門誌編集記者を経て、国際サッカー連盟(FIFA)の公式エディターに就任。FIFA主催の各種ワールドカップ運営に従事する。またベガルタ仙台(J1リーグ)のマーケティングディレクター、福島ユナイテッドFC(JFL)の運営本部長などプロクラブでも要職を歴任した。

現在は英国マンチェスターを拠点にイングランドと欧州のトップシーンを取材中。

最多タイトルホルダー、鳴かず飛ばずの3年間

ファーガソンが世界最高と称えられる理由は明確である。スペインリーグと並ぶ「世界最強リーグ」のプレミアリーグにおける「最多タイトルホルダー」が、彼なのだ。

プレミアリーグは、1992年にリーグの組織改編と名称変更がなされ、それまでのトップリーグ(イギリスを構成する4つの国のうち、イングランドとウェールズのクラブが参加)が、現在の名称へと変更。その後、巨額の放映権収入などによって飛躍的にレベルが向上し、世界的な人気を博することとなった。

1992年以降の20シーズンで、ファーガソンが獲得したタイトル数は、国内だけでもリーグ優勝12回、FAカップ(日本では天皇杯に相当)優勝4回、リーグカップ(日本ではJリーグヤマザキナビスコカップに相当)優勝3回にも及ぶ。さらに、欧州クラブの頂点にも2度、世界のクラブの頂点にも2度立っており、本拠地オールド・トラフォードのバックスタンドは「サー・アレックス・ファーガソン・スタンド」と命名された。文字通りの生きる伝説。名将中の名将である。

ビジネスパーソンの皆さんからは「そんな凄い人のマネ出来ないよ」との声も聞こえてきそうだが、彼は最初から伝説の人物だったわけではない。

実は、ユナイテッドの監督に就任してから最初の3年間は、無冠だったのである。鳴物入りでヘッドハンティングされたはいいが、目だった実績を挙げられないまま時は流れ、改革の掛け声もしぼんでいく。管理職としては、あまりにも悲しい姿である。

ところが、ファーガソンの場合、この無冠の3年間こそが「勝てる組織」を作る上で非常に重要な準備期間となったのである。

サー・アレックス・ファーガソン・スタンド

ファーガソンによる改革の骨子

ファーガソンが就任したのは、1986年。トップリーグがプレミアリーグへと組織改編する以前の話である。しかも、彼はイングランドのクラブを率いるのはこれが初めてだった。スコットランド国籍のファーガソンは、それまで小国スコットランドでのプレー経験、指導経験しかなかったのだ。

最初のシーズンは11位に終わった。

とはいえ、クラブ首脳陣は抜本的改革を痛感しており、熱血的指導で知られるファーガソンに育成組織の改革も含む、全権を委任している。時代はリバプールFCの全盛期だったのである。

翌シーズンは2位。これでファンの期待は高まったが、続く3シーズン目は11位。

ただ、この勝てなかった時期に、ファーガソンは徹底した手法で、チーム改革を断行している。この改革内容は次の2つに大別される。

  • (1)規律の徹底 : 規律を重視し、スター選手であろうとも、激しい衝突を厭わなかった。その結果、チームを支えてきた"才能はあるが酒に溺れる選手たち"を段階的に、容赦なく切り捨て、組織の新陳代謝を図った。いわば、「商品管理」を鬼のごとく徹底したのだ。
  • (2)育成の重視 : 「商品開発部門」ともいえるアカデミー組織の改革を地道に行い、積極的にトップチームへと引き上げた。

だが、プロサッカーも、ビジネスも、「時間」と「結果」がモノを言う世界だ。いかに正しい改革を行おうとも、目に見える結果を出さなければ、タイムアップ。プロ監督の世界では解任(会社でいえば降格人事や他の部署への配置転換)という厳しい処分が待っている。

案の定、続く4シーズン目には解任の噂も出始める。1989-90シーズン、彼が48歳の時である。リーグ戦こそ13位に終わったが、ここでようやく、ユナイテッドでの初タイトルを獲得。「世界最古の大会」として知られる、FAカップで優勝を果たしたのだ。とはいえ、2部への降格ゾーンまでは勝点5差という、危うい綱渡りぶりだった(当時の勝利ポイントは「2」、現在は「3」)。

"期待"につながる要素を経営陣に示せ

ただ、繰り返すが、マンチェスター・ユナイテッドが真のビッグクラブへと飛躍出来たのも、この不遇の時代にファーガソンが取り入れた(1)と(2)が成功の萌芽となったからに他ならない。

ファーガソンはその後、ヨーロッパのカップ戦の王者を決めるカップウィナーズカップ(現在はヨーロッパリーグとして他の大会と統合)で、1990-1991シーズンにバルセロナを破り、欧州タイトルを獲得する。続く1991-1992シーズンにはリーグ2位。アカデミー出身のライアン・ギグス(本稿執筆時点の現在も現役)が、18歳ながらチームの主力として活躍するようになる。この1992年には、後にトップチームの主力として数多くのタイトルをもたらすことになる、デイビッド・ベッカム(現パリ・サンジェルマン)、ポール・スコールズ(一度引退後、現在も現役)など、「商品開発部門」では素晴らしい商品が育ちつつあった。ファーガソンのまいた種が、次々と花開いていったのである。

時代を振り返ってみれば、いわば、ファーガソンが無冠だった3年間は「プロジェクトの準備期間」、あるいは「商品の再開発期間および新商品開発期間」ともいうべき、辛抱の時期だった。

この期間に「今手がけている商品には、これだけの可能性がある」ということを4年目、5年目のカップ戦タイトル獲得で、つまり誰の目にも見える形でフロント・現場、そしてファン(消費者)に示せたことが大きかった。それがなければ、伝説が幕を開けることはなかったかも知れない。

「ぶれないこと」は、いわば誰にでも出来る仕事である。だが、ぶれないことをいいことに、部署のトップが自尊心の塊になっては、プロジェクトは成功しない。

「あと少しで良い商品が出来る」と言いながら、時間と予算だけを浪費してはいないだろうか。「何でこんなタイミングで打ち切るのか」と、新プロジェクトに理解を示さない上司や経営陣に不平不満を漏らしてばかりはいないだろうか。

そんなビジネスパーソンは「誰の目から見ても期待してもらえる」努力をしているだろうか。小さくてもいい、「誰の目から見ても認めてもらえる」結果を手にしてきたのだろうか。「石の上にも三年」を経て、勝負の4年目で着実な結果(カップ戦優勝)を手にした、若き日のファーガソンのように。

*  *  *

ファーガソンは71歳になった今でも、まったくぶれていない。80年代の改革期に取り入れた彼のマネジメントの基本ともいうべき(1)と(2)を貫いているのだ。

次回は(1)の「規律」について考察しよう。